慕容という呼称について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:28 UTC 版)
慕容部という部族名(及び氏族名)は莫護跋より始まったと言われているが、その語源については諸説がある。 後漢の桓帝の時代、鮮卑大人の檀石槐は複数に分かれていた鮮卑の諸部族を纏め上げ、統一勢力を形成した。彼はその土地を東部・中部・西部の3部に分け、各部には複数の大人を置いて統治せたが、中部の大人の中には『慕容』という人物がおり、彼は部落の大帥(部族の大集団を統率する有力者)となったという。資治通鑑に注釈をつけた胡三省はこれこそが慕容部の始りだと述べている。これが正しいならば、莫護跋は祖先の名前を部族名とした事になる。 燕・代の地方では歩揺冠(歩く度に揺れる金製の簪)をかぶる少年が多く、莫護跋はこれを気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶった。これにより諸部族は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後に音が訛って慕容と呼ばれるようになったという。但し、これは前燕が建国された後、その臣下が吹聴した説だともいわれている。 莫護跋自ら「二儀(天・地)の徳を慕い、三光(日・月・星)の容(度量)を継がん」と宣言し、慕容を姓として採用したともいわれる。 莫護跋の祖先が慕容寺という場所に拠点を構えていた事から、これを部族名として採用したともいわれる。但し、これは王沈の著した『魏書』にある『柯最闕居慕容等為大帥(柯最・闕居・慕容らが大帥となった)』という文章の『等』という文字が、写本の過程で『寺』にすり替ってしまった事で、『柯最闕居慕容寺為大帥(柯最闕という人物は大帥となって慕容寺に居した)』という解釈に変わってしまった事から生まれた誤解であるともいう。
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