慕容儁の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)
12月、慕容儁は病を発して床に伏せがちになると、慕容恪を呼び出して「我の病はこの体を次第に弱め、恐らくは治ることはないであろう。短命でこの生涯を終えることになろうが、どうして恨む事があろうか!ただ心配なのは、未だ二寇(東晋・前秦)の脅威は除かれておらず、景茂(慕容暐の字)もまだ幼少である事だ。とても家国の多難を乗り切れるとは思えない。そこで古の宋の宣公に倣って、社稷を汝に任せようと考えている(宣公は自らの子與夷ではなく、弟の穆公を後継ぎとした)」と述べ、慕容恪に帝位を譲ろうとした。これに慕容恪は「太子はまだ幼いとは言え、天より聡聖を与えられております。必ずや残なる者どもに勝利し、刑措(犯罪の無い世界)をもたらしましょう。正統を乱してはいけません」と述べると、慕容儁は「兄弟の間で、どうしてうわべを飾る必要があるのか!」と怒った。この言葉に慕容恪は「陛下がもし臣(慕容恪)を天下の任に堪え得る者とお考えであるならば、どうして幼主(慕容暐)の補佐が出来ないと思われるのでしょうか!」と訴え、後継に立つより補佐に回る事を求めた。この言葉を聞くと慕容儁は大層喜んで「もし汝が周公のように事を行ってくれるのであれば、憂うることなど何もない(周公旦は、甥である周朝第2代王の成王が幼少の時に摂政となったが、成人すると政権を返して臣下の地位に戻った)。李績は清方にして忠亮な男であるから大事を任せられるだろう。汝はこれを善く遇するように」と述べた。 360年1月、慕容儁は病状が少し回復すると、鄴において大々的に閲兵を行い、慕容恪と司空陽騖に命じて前秦・東晋の征伐を敢行しようとした。だが、すぐに病状が悪化してしまい、取りやめとなった。慕容儁は死を悟ると、慕容恪・陽騖・慕容評・慕輿根らを呼び寄せて輔政を委ねる遺詔を遺し、やがて崩御した。 群臣たちはみな慕容恪に後を継ぐよう求めたが、彼は「国には儲君(皇太子である慕容暐)がおられる。我の節ではない」と固辞したので、予定通り慕容暐が帝位に即いた。慕容恪は太宰・録尚書事に任じられ、周公旦の故事に倣って事実上の摂政となり、百官の筆頭として朝政を主管した。また、太傅慕容評・太保陽騖・太師慕輿根がその補佐に当たった。
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