慕容垂との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
かつて、慕容皝は慕容垂の事をただ者では無いと思い、彼に「覇」という名を与え、世子に立てようとしたが、群臣が諫めたので取り止めた。それでも慕容皝は子の中でも慕容覇を最も寵愛しており、世子であった慕容儁は心中穏やかではなく、次第に慕容覇の事を憎むようになった。慕容儁が即位した後の事、慕容覇は馬から落ちてしまい歯を折ってしまった。慕容儁はこれをからかってその名を「𡙇(欠けるという意味)」と改めさせた。だが、𡙇という文字が讖文(予言書)に合致している事を知ると、これを妬んでさらに「垂」と改めさせたという。 357年、慕容垂の妻である段氏(段末波の娘)は自らが貴族である事から、慕容儁の皇后である可足渾氏(景昭皇后)を敬わなかった。可足渾氏はこれを大いに憎み、中常侍涅皓に命じて段氏が典書令高弼と共に呪術を行ったという偽りの罪をでっち上げた。慕容儁はかねてより慕容垂を快く思っていなかったので、これを理由に慕容垂を連座により失脚させようと考えた。そこで段氏と高弼を捕らえると、大長秋と廷尉に尋問するよう命じ、慕容垂もこれに加担していたと嘘の告白をさせようとした。段氏らは拷問を受けたことで獄中で亡くなってしまったが、確固たる志を持って最期まで口を割る事は無く、またその答弁は明確であったので、慕容垂は連座を免れる事が出来た。これにより慕容儁はやむなく慕容垂を平州刺史に任じ、遼東を鎮守させた。
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