慕容令の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
慕容垂の子の慕容令は父と共に前秦に亡命していたが、単独で逃げ戻って来た。だが、慕容垂は未だに前秦で厚遇されていたので、慕容暐は彼の帰順を偽りではないかと疑っており、傍には置かずに龍城の東北六百里にある沙城へ移らせた。慕容令はいずれ誅殺されてしまうと思い、密かに反乱を企み、沙城において数千の兵を養った。5月、慕容令は決起して牙門の孟嬀を殺害すると、城大の渉圭は大いに恐れて降伏した。慕容令はこれを信じて側近とした。反乱軍はそのまま東方にある威徳城を襲撃し、城郎の慕容倉を殺害すると、威徳城を拠点とした。また、東西の諸砦へ檄文を発すると、大半がこれに呼応した。勢力を増大させた慕容令らは次いで龍城を襲撃した。龍城を鎮守する鎮東将軍勃海王慕容亮は、慕容麟と共に城門を閉じて籠城した。ここで渉圭が寝返り、護衛兵を指揮して慕容令を攻撃したので、慕容令は単騎で逃げ、その配下は壊滅した。渉圭は慕容令を追撃し、遂に捕らえてこれを殺し、龍城へ出向いて慕容亮へその旨を伝えた。慕容亮は慕容令のために渉圭を誅殺し、慕容令の屍を回収して埋葬した。
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