慕容儁の時代
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349年5月、輔弼将軍に任じられた。また、陽騖は輔義将軍に、慕容恪は輔国将軍に任じられ、慕容評は彼らと共に三輔と称され、来る中原攻略の大遠征軍の中核を任された。 350年2月、慕容儁が中原への侵攻を開始すると、慕容評はこれに従軍した。前燕軍は各地で戦勝を挙げ、後趙の主要都市である薊や鄴などの後趙の主要都市を傘下に入れた。 これより以前、冉閔が後趙から自立して冉魏を建国すると、後趙の殿中督であった賈堅は郷里の勃海郡に戻り、数千の兵を纏め上げて自立するようになった。同年9月、慕容評は軍を率いて勃海に到来すると、使者を派遣して賈堅に帰順を要請したが、賈堅は決して降らなかった。その為、賈堅の守る高城へ侵攻すると、これを陥落させて賈堅を捕らえた。功績により章武郡太守に任じられた(章武郡は元勃海郡の一部である)。 351年8月、魯口を守る後趙の幽州刺史王午討伐に向かった。慕容評が南皮まで軍を進めると、王午は配下の将軍鄭生を派遣して迎撃させたが、これを返り討ちにして鄭生を討ち取った。 352年4月、慕容恪は魏昌の廉台において冉閔を撃破し、その身柄を捕らえた。同月、慕容儁の命により、慕容評は中尉侯龕と共に精鋭騎兵1万を率いて出撃し、冉魏の本拠地である鄴を包囲した。冉魏の大将軍蒋幹・皇太子冉智は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外にいる将兵は尽く慕容評に降伏した。5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、人々は人肉を食べて飢えを凌ぐ有様であった。蒋幹は東晋へ使者を派遣して帰順の意志を示し、引き換えとして援軍を要請した。これを聞いた慕容儁は広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬皇甫真らに2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。6月、東晋の将軍戴施は壮士100人余りを率いて鄴へ突入すると、三台(鄴城内にある氷井台・銅雀台・金虎台の3つの宮殿を指す)の守備に当たった。蒋幹は自軍の精鋭五千と東晋軍を率いて城から出撃したが、慕容評はこれを大破して4千の首級を挙げ、蒋幹は鄴城へ逃げ戻った。8月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れ、戴施と蒋幹は城壁を越えて逃走し、倉垣へ奔った。慕容評は董皇后・皇太子冉智・太尉申鍾・司空條枚らを捕らえ、乗輿・服御と共に慕容儁のいる薊へ送った。慕容儁は慕容評に鄴を鎮守するよう命じた。 352年11月、慕容儁が帝位に即いた。 354年3月、鎮南将軍・都督秦雍益梁江揚荊徐兗豫十州諸軍事に昇進し、洛水の鎮守を命じられた。 同年4月、司徒・驃騎将軍に昇進し、上庸王に封じられた。これ以降、四公(太尉・司徒・司空・大司馬)の一角として朝政に参画するようになり、前燕が滅亡する時まで司徒の職務を務め続けた。 358年2月、上党郡太守馮鴦が前燕に反旗を翻すと、慕容評は討伐に当たるも攻略に手間取った。3月、慕容儁の命により、領軍将軍慕輿根が慕容評軍の加勢として到来した。慕輿根が急攻しようとすると、慕容評は「馮鴦は砦を固めているから、その心を緩めるべきであろう」と諫めた。だが、慕輿根は「そうではありません。公(慕容評)は城下に至って月を経ておりますが、未だに一度も交戦しておりません。賊は我が国家の力がこの程度だと考え、万一の僥倖を願っております。今、我の兵がやってきた事で形勢が変わり、賊は恐れてみな離心を生じ、計を定められずにおります。これを攻めれば必ずや勝利を得られる事でしょう」と反論すると、慕容評もまたこれに応じて急攻を決行した。予想通り馮鴦は配下との間に互いに疑いを生じた末、野王へ逃走して呂護を頼り、その兵は皆降伏した。 9月、并州で一大勢力を保っていた張平を攻撃し、征西将軍諸葛驤・鎮北将軍蘇象・寧東将軍喬庶・鎮南将軍石賢らを始め138の砦を降伏させた。張平は3千の兵を伴って平陽へ逃走すると、前燕に謝罪して降伏を請うた。 359年8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕へ侵攻すると、石門より侵入して黄河の中州に駐屯した。諸葛攸は配下の匡超を碻磝に進ませ、蕭館を新柵に配置し、さらに督護徐冏には水軍三千を与えて進ませ、東西より気勢を上げた。慕容評は長楽郡太守傅顔と共に5万の歩兵・騎兵を率いて東阿において迎え撃つと、諸葛攸を大敗させた。
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