慕容暐を輔政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 09:44 UTC 版)
360年1月、慕容儁が崩御し、嫡男の慕容暐が即位した。死の間際、慕輿根は慕容儁より呼び出されると、大司馬慕容恪・領軍将軍慕輿根・司空陽騖と共に慕容暐の輔政を託された。 2月、慕容評は太傅に任じられ、太宰慕容恪・太師慕輿根と共に輔政の任についた。その中でも慕容恪が朝臣の筆頭に立てられたが、彼は決して専断する事は無く、必ず政務に関しては慕容評と合議したという。 慕輿根は朝廷を混乱させて自らが朝廷の実験を掌握しようと考えており、武衛将軍慕輿干と結託して慕容恪と慕容評の誅殺を目論んだ。その為、可足渾皇太后と慕容暐へ向けて「太宰(慕容恪)と太傅(慕容評)が謀反を企てております。臣が禁兵(近衛兵)を率いて彼らを誅殺し、社稷を安んじることをお許しください」と偽りの進言を行った。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容暐が「二公は国家の親賢(親族の賢臣)です。先帝により選ばれ、孤児と寡婦(慕容暐と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師こそが造反を考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため、取りやめとなった。やがて慕輿根の計画が露見すると、慕容評は慕容恪と共に謀議して密かに慕輿根の罪状を奏上した。これにより慕輿根は秘書監皇甫真・右衛将軍傅顔により捕らえられると、宮殿内で誅殺された。彼の妻子や側近も同じく罪に伏して処刑され、慕輿根ともども首は東市に晒された。 361年2月、方士の丁進は慕容恪へ、慕容評を殺して政権を独占するよう説いたが、慕容恪は激怒し上奏して丁進を捕え、これを斬った。 364年2月、龍驤将軍李洪と共に河南へ侵攻すると、許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とした。さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。 366年3月、国内で水害や旱魃が多発するようになると、慕容評は慕容恪と共に頓首して辞職を願い出たが、慕容暐はこれを認めずにその上表を破り捨てた。 367年5月、慕容恪が病により重篤に陥った。慕容恪は慕容評の猜疑心が強い事から、自らの死後には才覚ある人間を取り立てないのではないかと憂慮していた。その為、慕容評へ向けて、弟の呉王慕容垂を大司馬に取り立てて六軍を統率させる様に言い残した。また、慕容暐の庶兄の安楽王慕容臧へも同様の進言を行った。やがて慕容恪が病死すると、慕容評は可足渾皇太后と共に朝臣の筆頭として国政を統括するようになった。
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