慕容評大敗
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10月、王猛は将軍毛当に晋陽を任せ、さらに潞川へ進軍して慕容評と対峙した。慕容評は王猛軍が敵中に深入りしている事から持久戦に持ち込もうとした。だが、彼はこのような状況にあっても、山間の泉水を包囲して断つ事で資源を独占し、それにより得た散木や水を売り捌き、金銭や布帛を山のように積んでいた。士卒はみなこの事に不満を抱いており、その士気は大いに低下していた。王猛は游撃将軍郭慶に精鋭騎兵五千を与えると、夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により、慕容評軍の輜重は焼き尽くされた。この火は、鄴からも見える程凄まじかったと言う。慕容暐はこれに驚愕し、侍中蘭伊を派遣して慕容評へ「王は高祖(慕容廆)の子であり、宗廟社稷を憂えるのべきであるに、将兵を慰撫せずに、なぜに材木や水を独占してその利益をかき集めているのか!官庫に山積する財宝を朕は王と共有しておるのに、なぜに貧しさを憂えているのか!もし賊が進撃して国を滅ぼしてしまえば、王はかき集めた銭帛をどこに収容するというのか!かき集めた銭帛は全て兵卒へ分け与え、これを督して速やかに戦闘するように!」と詰ったので、慕容評は大いに恐れ、王猛へ使者を送って決戦を告げた。 王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させた。慕容評はこれに抗しきれず、大敗を喫して数えきれない程の将兵が殺傷された。日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜や戦死した兵はゆうに5万を超えた。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。慕容評は単騎で鄴へと逃げ帰った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。 苟純はつて梁琛の副使として共に長安へ使者として派遣されていたが、梁琛が苻堅と謁見する際の応対について何も自分に相談しなかった事を心中恨んでおり、慕容暐へ「琛(梁琛)が長安に滞在していた時、王猛と甚だ交流を琛めておりました。もしかすると異謀を抱いたかもしれませんぞ」と讒言した。また、梁琛は帰国してから度々苻堅や王猛を称える発言をしており、また前秦軍の襲来に備えて軍備を厳重にするよう告げていた。その為、梁琛の予測通り前秦は襲来すると、慕容暐は大いに内通を疑った。ここに至って遂に梁琛を内通者と断定し、投獄した。
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