慕容評大敗とは? わかりやすく解説

慕容評大敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)

慕容暐」の記事における「慕容評大敗」の解説

10月王猛将軍毛当晋陽任せ、さらに潞川へ進軍し慕容評対峙した。慕容評王猛軍が敵中深入りしている事から持久戦持ち込もうとした。だが、彼はこのような状況にあっても、山間泉水包囲して断つ事で資源独占し、それにより得た散木売り捌き金銭布帛を山のように積んでいた。士卒はみなこの事に不満を抱いており、その士気大い低下していた。王猛游撃将軍郭慶精鋭騎兵五千与えると、夜闇乗じて間道から敵陣営背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により、慕容評軍の輜重焼き尽くされた。この火は、鄴からも見える程凄まじかったと言う慕容暐はこれに驚愕し侍中伊を派遣して慕容評へ「王は高祖慕容廆の子であり、宗廟社稷憂えるのべきであるに、将兵慰撫せずに、なぜに材木独占してその利益をかき集めているのか!官庫山積する財宝を朕は王と共有しておるのに、なぜに貧しさ憂えているのか!もし賊が進撃して国を滅ぼしてしまえば、王はかき集めた銭帛をどこに収容するというのか!かき集めた銭帛は全て兵卒分け与え、これを督して速やかに戦闘するように!」と詰ったので、慕容評大い恐れ王猛使者送って決戦告げた王猛渭原布陣すると、鄧羌張蚝徐成らを慕容評陣営突撃させた。慕容評はこれに抗しきれず、大敗喫して数えきれない程の将兵殺傷された。日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜戦死した兵はゆうに5万超えた王猛はこの勝利乗じてさらに追撃掛けると、捕虜戦死者の数は10万上った慕容評単騎で鄴へと逃げ帰った王猛そのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。 苟純はつて梁琛副使として共に長安使者として派遣されていたが、梁琛苻堅謁見する際の応対について何も自分相談しなかった事を心中恨んでおり、慕容暐へ「琛(梁琛)が長安滞在していた時、王猛甚だ交流を琛めておりました。もしかすると異謀を抱いたかもしれませんぞ」と讒言したまた、梁琛帰国してから度々苻堅王猛称える発言をしており、また前秦軍の襲来備えて軍備厳重にするよう告げていた。その為、梁琛予測通り前秦襲来すると、慕容暐大い内通疑った。ここに至って遂に梁琛内通者断定し投獄した

※この「慕容評大敗」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「慕容評大敗」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。

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