慕輿根の造反とは? わかりやすく解説

慕輿根の造反

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)

慕容暐」の記事における「慕輿根の造反」の解説

慕輿根慕容恪国政担っている事に不満を抱いており、密かに政権掌握目論んでいた。彼はまず国政を乱そうと考え慕容恪の下へ出向くと、慕容暐と可足渾氏を排斥して自ら帝位即くよう勧めたが、慕容恪応じなかった。その為、今度慕容恪慕容評誅殺考え武衛将軍慕輿干と共に密かに謀略練った。そして慕容暐と可足渾氏の下へ出向くと、慕容暐らへ「太宰慕容恪)と太傅慕容評)が謀反企てております。臣が禁兵近衛兵)を率いて彼らを誅殺し、社稷安んじることをお許しください」と偽りの進言行った。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容暐が「二公は国家の親賢(親族賢臣)です。先帝により選ばれ孤児寡婦慕容暐と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師こそが造反考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため取りやめとなったまた、慕輿根郷里である東土中国東側前燕がかつて本拠地としていた遼西地方を指す)を懐かしみ、可足渾氏と慕容暐向けて「今、天下混迷し、外敵も一つではありません。この国難大い憂えているところであり、東の地へ戻られるべきかと存じます」と訴え還都強行しようとしたが、慕容暐がこれを中止させた。ここにおいて次第慕輿根反心が明らかとなると慕容恪遂に誅殺決め慕容評と謀って密かにその罪状奏上すると共に秘書監皇甫真・右衛将軍傅顔派遣して慕輿根捕らえさせ、宮殿内誅殺した。彼の妻子側近同じく罪に伏して処刑され慕輿根ともども首は東市晒された。その後領内大赦下した3月慕容儁龍陵埋葬した。景昭皇帝と諡し、廟号烈祖とした。 また、慕容恪慕容垂を使持節・征南将軍都督河南諸軍事・河南大都督・南蛮校尉兗州牧・荊州刺史任じ梁郡睢陽県の蠡台を鎮守させた。さらに、孫希安西将軍并州刺史に、傅顔護軍将軍任じ、他の者もそれぞれ官爵授けた当時前燕災難続いていた事を理由徴兵が行われたが、これに徴兵受けた領内の民は大い動揺し命令拒んで勝手に郷里戻ろうとした。その為、鄴以南では道路大い混雑し断絶してしまった。慕容恪傅顔騎兵2万与えて河南の地で観兵行い淮河まで到達したところで帰還させた。これにより、領内動揺は静まると共に、その軍威大いに盛んとなった4月、単男を雁門郡太守任じた361年1月平陽の民は郡を挙げて前燕降伏した慕容暐は建威将軍段剛太守任じ、督護韓苞と共に平陽を守らせた。 2月方士の丁進は慕容暐から重用受けていたが、彼は慕容恪媚び売ろう思い慕容評殺して政権独占するよう説いた。だが、慕容恪はこれに激怒して丁進を誅殺するよう上奏し、丁進を捕らえて処断した。

※この「慕輿根の造反」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「慕輿根の造反」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「慕輿根の造反」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

慕輿根の造反のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



慕輿根の造反のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの慕容暐 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS