慕輿根の造反
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慕輿根は慕容恪が国政を担っている事に不満を抱いており、密かに政権の掌握を目論んでいた。彼はまず国政を乱そうと考え、慕容恪の下へ出向くと、慕容暐と可足渾氏を排斥して自ら帝位に即くよう勧めたが、慕容恪は応じなかった。その為、今度は慕容恪と慕容評の誅殺を考え、武衛将軍慕輿干と共に密かに謀略を練った。そして慕容暐と可足渾氏の下へ出向くと、慕容暐らへ「太宰(慕容恪)と太傅(慕容評)が謀反を企てております。臣が禁兵(近衛兵)を率いて彼らを誅殺し、社稷を安んじることをお許しください」と偽りの進言を行った。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容暐が「二公は国家の親賢(親族の賢臣)です。先帝により選ばれ、孤児と寡婦(慕容暐と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師こそが造反を考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため、取りやめとなった。また、慕輿根は郷里である東土(中国の東側。前燕がかつて本拠地としていた遼西地方を指す)を懐かしみ、可足渾氏と慕容暐へ向けて「今、天下は混迷し、外敵も一つではありません。この国難を大いに憂えているところであり、東の地へ戻られるべきかと存じます」と訴え、還都を強行しようとしたが、慕容暐がこれを中止させた。ここにおいて次第に慕輿根の反心が明らかとなると、慕容恪は遂に誅殺を決め、慕容評と謀って密かにその罪状を奏上すると共に、秘書監皇甫真・右衛将軍傅顔を派遣して慕輿根を捕らえさせ、宮殿内で誅殺した。彼の妻子や側近も同じく罪に伏して処刑され、慕輿根ともども首は東市に晒された。その後、領内に大赦を下した。 3月、慕容儁を龍陵に埋葬した。景昭皇帝と諡し、廟号は烈祖とした。 また、慕容恪は慕容垂を使持節・征南将軍・都督河南諸軍事・河南大都督・南蛮校尉・兗州牧・荊州刺史に任じ、梁郡睢陽県の蠡台を鎮守させた。さらに、孫希を安西将軍・并州刺史に、傅顔を護軍将軍に任じ、他の者もそれぞれ官爵を授けた。 当時、前燕で災難が続いていた事を理由に徴兵が行われたが、これに徴兵を受けた領内の民は大いに動揺し、命令を拒んで勝手に郷里に戻ろうとした。その為、鄴以南では道路が大いに混雑し、断絶してしまった。慕容恪は傅顔に騎兵2万を与えて河南の地で観兵を行い、淮河まで到達したところで帰還させた。これにより、領内の動揺は静まると共に、その軍威は大いに盛んとなった。 4月、単男を雁門郡太守に任じた。 361年1月、平陽の民は郡を挙げて前燕へ降伏した。慕容暐は建威将軍段剛を太守に任じ、督護韓苞と共に平陽を守らせた。 2月、方士の丁進は慕容暐から重用を受けていたが、彼は慕容恪へ媚びを売ろうと思い、慕容評を殺して政権を独占するよう説いた。だが、慕容恪はこれに激怒して丁進を誅殺するよう上奏し、丁進を捕らえて処断した。
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