慕輿根の乱
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朝廷の重臣の一人である慕輿根は先代からの旧臣であったが、過去の勲功をひけらかす事がしばしばあり、その挙動には傲慢さが満ちていた。また、心中では慕容恪の事を見下しており、隙あらば朝廷を混乱させて自らが政権を掌握しようと考えていた。当時、皇太后の可足渾氏は政治に深く介入していたので、慕輿根はこれを契機とみて慕容恪へ「今、主上(慕容暐)はまだ幼く、母后(可足渾氏)は政事に深く干渉しております。殿下(慕容恪)は楊駿や諸葛元遜(諸葛恪)の身に起こった変事をよく考え、自らの身の安全を保つにはどうすべきかよくお考え下さい。それに、天下を定めたのはまさしく殿下の功績(中原を制圧した事を指す)であり、兄が死んで弟が受け継ぐのは古今の習わしでもあります(殷の時代の法であった)。先帝の埋葬が済み次第、主上を廃立して代わって王になられるのが宜しいかと思います。殿下が自ら尊位(皇帝の位)に即くことで、この大燕に無窮の幸福をもたらすことになりましょう」と進言し、両者を仲違いせようとした。だが、この発言に慕容恪は憤慨し「公(慕輿根)は酔っているのか。何というたわけた事を言うのだ。我と公は先帝より遺詔を受けているというのに、どうしてそのような議論をするのだ。昔、曹臧(春秋時代曹の宣公の子の公子欣時、字は子臧)と呉札(春秋時代呉の公族季札)はいずれも家難の際にあったが、それでもなお君主となる事はその節に非ずと言ったのだ。今、儲君(皇太子の事。ここでは慕容暐の事)が後を継いで四海を患いなく国を統べているというのに、遺言を受けた宰輔(宰相)がどうして私議を語るのか!公は先帝のお言葉を忘れたというのか」と叱責したので、慕輿根はひどく恥入り、謝罪して退出した。 慕容恪はこの一件について弟の慕容垂へ告げると、彼は慕輿根を誅殺するよう勧めた。しかし慕容恪は「今、大喪(慕容儁の崩御)があったばかりであり、二隣(東晋と前秦)が隙を窺っている。山陵(慕容儁の陵墓)すらまだ建てられていないのに、宰輔(宰相)同士が殺し合ってしまえば、遠近の民の人心は離れてしまうだろう。今は忍ぶべきだ」と述べ、従わなかった。秘書監皇甫真もまた慕容恪へ「根(慕輿根)という男は、根はもともと凡庸な者に過ぎないのに、先帝の厚恩を賜って今の地位まで引き立てられたのです。しかしその本性は見識のない小人のままであり、それが先帝の崩御以来日に日にひどくなっております。このままでは大乱へ至ります。明公(慕容恪)は周公旦のごとき地位にあるからには、社稷を考えて速やかにこれを除くべきでしょう」と勧めたが、慕容恪は国内の動揺を憂えて従わなかった。 遂に慕輿根は武衛将軍慕輿干と結託し、慕容恪を同じく朝廷の重鎮である慕容評ともども誅殺しようと企むようになった。その為、慕輿根は可足渾氏と慕容暐の下へ出向くと、彼らへ向けて「太宰(慕容恪)と太傅(慕容評)が謀反を企てております。臣が禁兵(近衛兵)を率いて彼らを誅殺し、社稷を安んじることをお許しください」と偽りの進言を行った。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容暐が「二公は国家の親賢(親族の賢臣)です。先帝により選ばれ、孤児と寡婦(慕容暐と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師こそが造反を考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため、取りやめとなった。 また、慕輿根は東土(中国の東側。前燕がかつて本拠地としていた遼西地方を指す)を懐かしみ、可足渾氏と慕容暐へ向けて「今、天下は混迷し、外敵も一つではありません。この国難を大いに憂えているところであり、東の地へ戻られるべきかと存じます」と訴え、還都を強行しようとしたが、慕容暐に止められた事もあった。 ここにおいて次第に慕輿根の反心が明らかとなり、これを聞いた慕容恪は遂に誅殺を決め、慕容評と謀って密かにその罪状を奏上した。これにより慕輿根は秘書監皇甫真・右衛将軍傅顔により捕らえられると、宮殿内で誅殺された。彼の妻子や側近も同じく罪に伏して処刑され、慕輿根ともども首は東市に晒された。 後に慕容恪は皇甫真へ「汝の建議に従わなかったせいで、もう少しで禍敗を引き起こすところであった」と述べ、忠告に従わなかった事を謝罪した。
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