慕容部との戦いと滅亡
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325年3月、段末波は死去し、弟の段牙が後を継いだ。11月、段牙は令支から都を移したが、これに部族の民は大いに不満を抱いた。12月、初代大人段日陸眷の孫である段遼は位を簒奪しようと画策し、独断で遷都した罪をもって段牙を攻撃し、殺害すると自ら位を継いだ。段遼は東晋朝廷より幽州刺史・大単于に任じられ、331年2月には驃騎大将軍・幽州刺史・大単于に任じられ、北平公に封じられている。 333年10月、慕容部の大人慕容皝の庶兄である建威将軍慕容翰が段部へ亡命すると、段遼は彼を厚遇した。 11月、慕容皝の弟である征虜将軍慕容仁が反乱を起こして遼東を占拠すると、段遼は宇文部と共に慕容仁を支援した。 334年1月、慕容部の材官将軍劉佩が乙連に侵攻したが、返り討ちにした。 2月、慕容部領の徒河に侵攻するも失敗した。また、段遼の弟の段蘭と慕容翰を慕容部の本拠地柳城へ侵攻させたが、都尉石琮らに撃退された。 10日余りした後、再び段蘭と慕容翰を派遣して柳城を包囲させたが、攻略する事は出来ず、逆に千五百の兵を失った。寧遠将軍慕容汗・封奕らが救援として到来すると、段蘭は牛尾谷において大勝した。段蘭はこの勝ちに乗じて深く侵入しようと考えたが、慕容翰の反対により退却した。 336年6月、中軍将軍李詠に命じて慕容部領の武興に夜襲を掛けさせたが、雨により途中で中止し、軍を返した。李詠は慕容部より追撃を受け、生け捕られた。その後、段蘭に再び柳城攻撃に取り掛からせ、宇文部の大人宇文逸豆帰もまた呼応した。だが、慕容皝が柳城に進軍すると、段蘭も宇文逸豆帰も退却した。 7月、数千の騎兵を率いて慕容部へ侵攻したが、慕容皝は伏兵を配置して待ちかまえており、段遼は大敗を喫した。慕容皝の世子の慕容儁が段部の諸城を攻めると、段部は大敗を喫した。 337年3月、慕容皝は段部の本拠地である乙連城の東に好城を築き、段部を威圧した。4月、乙連では飢饉が深刻となっており、段遼は数千両の車で穀物を輸送しようとしたが、慕容部の将軍蘭勃はこれを奪い取った。 6月、段遼は従弟の段屈雲に騎兵を与え、興国城を守る慕容遵を夜襲させたが失敗し、敗残兵は尽く捕虜となった。 338年1月、段遼は後趙領の幽州へ侵攻し、幽州刺史李孟を易京へ撤退させた。同月、石虎は段部討伐の軍を興した。3月、慕容皝も石虎に呼応し、令支以北の諸城を攻撃して回った。段蘭は総力を持って迎撃にあたったが、慕容皝に大敗を喫して数千の兵を失った。また、石虎の侵攻により、段部勢力下の漁陽郡・上谷郡・代郡の諸太守は相継いで降伏した。段遼は妻子親族及び豪族千戸余りを率いて密雲山へ逃走を図ったが、石虎の将軍郭太・麻秋より追撃を受け、3千をの兵を失い、母と妻が捕らえられた。 12月、段遼は前燕に降伏の使者を派遣し、民と共に棘城へ送られた。その後、謀叛を起こそうとするも失敗し、配下の数十人と共に殺された。これにより、段部はいったん滅んだ。
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