慕容汗とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 慕容汗の意味・解説 

慕容汗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/12 01:06 UTC 版)

慕容 汗(ぼよう かん、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。昌黎郡棘城県の出身。鮮卑慕容部の大人慕容廆の子。

生涯

鮮卑慕容部の大人慕容皝に仕え、寧遠将軍に任じられていた。

咸和8年(333年)10月、征虜将軍慕容仁、広武将軍慕容昭が、慕容皝に対する反乱を起こした。慕容昭は賜死させたが、慕容仁は平郭で自立した。慕容皝は広武将軍高詡・建武将軍慕容幼慕容稚・広威将軍慕容軍・寧遠将軍慕容汗・司馬冬寿に5千の兵を与え、慕容仁討伐に向かわせた。慕容仁と汶城の北で戦い、大敗した。遼東城へ向かうが、慕容仁に呼応したため、入れずにいた軍諮祭酒封奕とともに帰還した。

咸和9年(334年)2月、柳城が段部段蘭慕容翰に攻められていた。慕容皝は慕容汗・司馬封奕らを救援に遣わした。慕容皝は慕容汗に速戦しないようにと戒めた。慕容汗は千余騎を前鋒として直進させた。封奕は止めたが、慕容汗は従わなかった。段蘭らと牛尾谷で遭遇、慕容汗の兵は死者が大半を占める大敗を喫したが、封奕は戦列を整え力戦したため、窮地を脱した。

咸康3年(337年)11月、慕容皝は揚烈将軍宋回を遣わし、後趙への称藩と段部討伐を要請、自らも兵を挙げて合流することを約束して、慕容汗を人質として後趙に送った。後趙の天王石虎は大いに喜び、答礼の書面と共に慕容汗を本国へ還して、段部討伐を約束した。

これ以後の事績は、史書に記されていない。

家系

兄弟

姉妹

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  慕容汗のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「慕容汗」の関連用語

慕容汗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



慕容汗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの慕容汗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS