段部の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
同月、慕容皝は段部の勢力が幾度も国境を荒らしているのを悩みの種としていたので、揚烈将軍宋回を中華最大の勢力である後趙に派遣すると、大趙天王石虎へ称藩する(後趙を宗主国と認める事)代わりに段部討伐の軍を興すよう要請した。また、自らも国中の兵を挙げて合流する事を約束し、庶弟の寧遠将軍慕容汗を人質として送った。後趙もまた段部より幾度も国境の襲撃を受けていたので、石虎はこの申し出を大いに喜び、厚く返礼の言葉を送ると共に慕容汗を本国へ還してやり、翌年に共同で挙兵する事を約束し合った。 338年1月、慕容皝は改めて都尉趙盤を後趙へ派遣し、出征の時期について確認した。これを受けて石虎は征伐を決行し、水軍10万、歩兵騎兵合わせて7万を段部征伐に向かわせた。3月、趙盤が棘城に帰還すると、石虎の出兵を知った慕容皝もまた自ら諸軍を率いて出撃し、令支以北の諸城を攻撃した。これを知った段遼は段蘭に迎撃を命じたが、慕容皝は伏兵を配置して奇襲を掛けて大いに破り、数千の首級を挙げて数万の畜産を鹵獲し、5千戸余りの民を捕らえた。だが、そのまま後趙軍とは合流せずに軍を帰還させた。 後趙軍の前鋒である支雄は侵攻を続けて段部勢力下の漁陽郡・上谷郡・代郡を相継いで攻略し、瞬く間に49を超える城を下した。さらに進軍を続けて徐無まで到達すると、段遼は抗戦を諦めて本拠地の令支を放棄し、密雲山へと逃亡した。石虎はそのまま令支を占拠した。 4月、東晋朝廷より使者が到来し、慕容皝は征北大将軍・幽州牧・領平州刺史任じられ、散騎常侍を加えられ、1万戸を加増された。また、持節・都督・単于・遼東公などは以前通りとされた。ただ、燕王の位については何も沙汰が無かった。
※この「段部の滅亡」の解説は、「慕容皝」の解説の一部です。
「段部の滅亡」を含む「慕容皝」の記事については、「慕容皝」の概要を参照ください。
- 段部の滅亡のページへのリンク