段部討伐
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段部の首領段龕はかつて冉閔の乱が起こった際、その混乱に乗じて本拠地の令支から兵を率いて南下を開始し、さらに東に進んで広固(現在の山東省濰坊市青州市の北西)に拠点を構えると、その勢力を大きく広げていた。また、自ら斉王を名乗り、東晋に称藩を申し入れ、朝廷より鎮北将軍に任じられていた。 355年10月、段龕は慕容儁へ書簡を送り、中表の儀(東晋建国時に誓った忠誠)に背いて皇帝に即位した事を強く非難した。慕容儁はこの書を見ると甚だ激怒し、討伐を決断した。 11月、慕容儁は太原王慕容恪を征討大都督・撫軍将軍に任じて段龕討伐を命じ、陽騖・慕容塵も副将として従軍させた。その一方で、彼は段龕の勢力が強盛である事を憂慮していたので、出発に際して慕容恪へ「もし段龕が対岸に軍を並べて拒んでおり、渡河する事が出来なかったならば、代わりに呂護を攻めてから還るのだ」と忠告した。 12月、慕容恪はまず軍を分けて軽騎兵のみを先に黄河北岸へ到達させると、段龕の動向を伺いながら船を用意して渡河の準備を進めた。段龕は兵を出さずに慕容恪を待ち構えたので、妨害を受ける事は無かった。 356年1月、慕容恪が渡河を果たして広固から200里余りの所まで進撃すると、段龕は兵3万を率いてこれを迎え撃った。両軍は淄水の南で交戦となったが、慕容恪はこれを大破して弟の段欽を捕らえ、右長史袁範らを討ち取り、数千人の士卒を降伏させた。また、段龕配下の王友辟閭蔚を捕らえると、慕容恪は彼が賢人である事を聞いていたので、人を派遣して招こうとしたが、戦傷により既に亡くなっていた。段龕は広固に逃げ戻って城を固守したので、慕容恪はそのまま軍を進めて城を包囲した。 2月、段龕の治める諸城に使者を派遣し、降伏を促した。これにより、段龕が任命した徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らは衆を挙げて来降した。慕容恪は王騰に今まで通りの職務を委ねて陽都を鎮守させた。 諸将は慕容恪へ速攻を勧めたが、これに慕容恪は「用兵の道というのは、有る時は緩をもって敵に勝ち、有る時は急をもって攻め取るものであり、これを見極めることが肝要である。もしお互いの軍勢が均衡しており、敵に強力な援軍があって背後を突かれる危険がある場合には、急攻した方がよいであろう。その速さこそが大利であると言える。もし我が軍の方が敵より優勢であり、外からの救援も無ければ、力で制するには充分であるから、ただ束縛して守りを固めて疲弊するのを待てばよい。兵法のいう『十囲五攻』とは、まさにこの事である。段龕はその賊党と恩で結しており、兵の心もまだ離れていない。済南の戦い(淄水の南での合戦)においては、段龕の兵は精強であったが、単に無策であったために敗北に至ったまでである。しかし今は、天険をもって城を固めており、軍の上下は心を一つにしている。攻守の勢いは倍しており、これこそ軍の常法である。もし我が精鋭をもって攻勢に出れば、数旬と掛からずに攻略する事が出来るであろうが、恐らく我が士兵に少なからず損害が出てしまうであろう。中原での戦いが始まって以来、兵は安寧を取る事が出来ておらず、我はいつもその事を考え、夜に眠る事すら忘れるくらいだ。どうして人命を軽んじてよいものだろうか!持久をもってこれを攻めとるとする。功の速さを求めてはならんぞ!」と答えた。これを聞いた諸将はみな「とても及ぶところではありません」と感嘆し、軍中の兵卒はこれを聞くと皆喜んだという。 ここにおいて慕容恪は深い塹壕を掘ると共に土塁を堅固に仕立て、さらに畑を耕して長期戦の構えを取った。青州の民は段龕の敗亡を悟り、先を争って前燕軍へ食糧を供給するようになった。 8月、段龕は一族の段蘊を東晋に派遣して救援を要請すると、穆帝はこれに応じて北中郎将・徐州刺史荀羨を救援に派遣した。だが、荀羨は前燕軍の強勢に恐れをなし、琅邪に至った所で進軍を止めた。この時、王騰が鄄城へ侵攻しており、荀羨はその隙を突いて陽都を攻めると、長雨に乗じてこれを攻略した。王騰もまたこれに敗れて戦死したが、荀羨はそのまま広固の救援には赴かずに軍を返した。 慕容恪は城の周囲の木々を伐採し、さらに糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は総力を挙げて城から打って出たが、慕容恪は敢えて陣営の中に引き入れてからこれを返り討ちにした。段龕は退却を図ったが、慕容恪は予め兵を分けて諸々の門に配置しており、退却しようとする段龕軍を散々に打ち破った。段龕自身はかろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅し、これにより城中の士気は激減した。 11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して陣営へ出頭した。こうして斉の地は尽く平定され、慕容恪は段龕を朱禿(前燕から反逆して段龕に帰順していた)と共に薊に送還すると共に、斉の地に住まう鮮卑や羯族3千戸余りを薊に移住させ、残りの民については慰撫してこれまで通りの生活を約束した。慕容恪は鎮南将軍慕容塵に広固の鎮守を任せると、軍を返して帰還した。
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