段部撃破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)
同年12月、王浚は石勒討伐の為、督護王昌を始め鮮卑段部の段疾陸眷・段末波らに5万余りを与えて襄国に向かわせた。 この時、襄国城では堀の改修作業が終了していなかったため、石勒は城から離れた所に幾重にも柵を築かせ、さらに砦を設けて守りを固めた。段疾陸眷軍が渚陽まで至ると、石勒は諸将を繰り出して続け様に決戦を挑んだが、全て蹴散らされた。連勝に勢いづいた敵軍は、一気呵成に攻城戦の準備に取り掛かった。この情報が石勒軍に伝わると、兵の間に動揺が走った。石勒は将を集めて軍議を開くと「今、敵がすぐそこまで接近している。我が軍との兵力差を考えれば、包囲攻撃を仕掛けられたらば、解く事は不可能に等しいであろう。外からの救援は無く、籠城しようにも兵糧が底を突きかけている。この現状にあっては、孫武と呉起が生き返ったとしても、守り切る事は出来ないと思われる。そこで我は将士を選抜して、野戦で決戦を雌雄を決しようと考えたのだが、どう思うか」と意見を求めた。だが、諸将はみな守りを固めて敵の疲弊を待ち、撤退を見てから追撃を掛けるべきであると口を揃えた。その為、石勒は張賓と孔萇に名指しで意見を求めた。張賓らは「段疾陸眷らは、来月上旬にも北城に決死行を仕掛けるとの報告があり、後続軍が今まさに大挙して至っております。連日の戦闘で我が軍勢の弱さを知ったためか、我らに野戦などする気概は無いと鷹をくくっており、その内に必ずや注意を怠るようになるでしょう。今、鮮卑において、段部が最も勢い盛んであります。その中にあって、段末波が最も精強であり、彼の下には精鋭部隊が配備されております。これと一戦を交えないということは、敵に我が軍が弱気である事を改めて示す事に他なりません。ここは北壁に穴を開けて20余りの突門を造らせ、敵が軍を整備し終える前にその不意を突いて撃って出るのです。そのまま段末波の陣営を急襲すれば、敵は必ずや慌てふためき、計略を設ける暇も無いでしょう。これこそ『迅雷は耳に及ばず』です。段末波軍が敗れ去ったとなれば、他は自ずと瓦解するでしょう。彼さえ生け捕ることが出来れば、王彭祖(王浚)など遠からず撃ち破れましょう」と応えた。石勒は我が意を得たりと微笑を浮かべると、作戦は決したとして軍議を閉じた。 そして、すぐさま孔萇を攻戦都督に任じて北城に突門を造らせると、想定通り段疾陸眷は北壁の近くに布陣した。孔萇は機を逃さず各突門に配していた伏兵を出撃させると、段部の兵を撃ち破って段末波を生け捕った。これにより、段疾陸眷らは散り散りになって逃げ去った。
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