段部・宇文部を圧倒とは? わかりやすく解説

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段部・宇文部を圧倒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)

慕容皝」の記事における「段部・宇文部を圧倒」の解説

慕容皝慕容仁との抗争終結させたものの、父祖の代より遼西地方覇権争ってきた段部宇文部未だに健在であった336年6月段遼配下将軍詠に命じて武興に夜襲掛けさせたが、だったので途中で中止して軍を返した慕容皝配下都尉張萌は退却中の詠軍に追撃掛け、これを撃ち破って詠を生け捕った。 その後段遼はさらに弟の段蘭数万の兵を与えて慕容部攻撃させ、段蘭曲水亭まで進軍するとこの地に拠点築き、さらに柳城攻めんとして西へ進んだ。さらに、宇文逸豆帰もまた段蘭呼応して軍を慕容部攻撃し、安晋へ侵攻した慕容皝歩兵騎兵合わせて5万率いて出撃して柳城進軍すると、段蘭戦わずして退却した。さらに北へ軍を反転させて安晋へ向かうと、宇文逸豆帰輜重捨てて逃走したが、慕容皝は右司馬封奕軽騎兵与えて宇文逸豆帰追撃させ、これを大破した封奕宇文逸豆帰放棄した輜重回収し20日後に軍を返した慕容皝諸将へ「二宇文部段部)は功無きままに帰ったことを恥じ必ずやまた到来するであろう柳城左右に伏兵を置き、これを待ち受けるべきである」と伝えると、封奕騎兵数千与えて兜山諸道伏兵として配置した7月目論通り段遼数千騎兵率いて襲来すると、封奕伏せていた兵を繰り出して段遼軍を挟撃し、大い撃ち破って将軍栄保を討ち取った10月世子慕容儁段部諸城攻撃させ、右司馬封奕宇文別部攻めさせ、いずれも大勝収めてから軍を帰還させた。 12月慕容皝広く部下からの諫言求め立札設置し、讜言(教訓となるような正し忠言)を聞き入れる姿勢内外知らしめた。 337年3月慕容皝昌黎郡へ軍を移すと、段部本拠地である乙連城の東に好城を築き折衝将軍勃を派遣してこれを守らせて段部威圧したまた、曲水にも城を築いて勃の後援とした。4月、乙連では飢饉が深刻となり、段遼数千両の車を用いて穀物を乙連まで輸送しようとしたが、勃はこれを奪い取った6月段遼従弟の揚威将軍段屈精鋭騎兵与え慕容皝の子である慕容遵が守る興国城を夜襲させた。だが、慕容遵五官水上大規模な会戦行ってこれを撃ち破り、段屈討ち取って敗残兵尽く捕虜とした。

※この「段部・宇文部を圧倒」の解説は、「慕容皝」の解説の一部です。
「段部・宇文部を圧倒」を含む「慕容皝」の記事については、「慕容皝」の概要を参照ください。

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