敗亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:45 UTC 版)
司馬顒の部下であった李含は当時洛陽に入っていたが、司馬冏の部下で過去に確執のあった皇甫商や夏侯奭らと対立したため、危害を恐れて長安に戻ると、密詔を受けたと偽って「長沙王司馬乂に司馬冏を討つよう命じれば、兵力で劣る司馬乂は必ず殺されるでしょう。そして司馬乂を滅ぼした罪を理由に司馬冏を攻め、成都王司馬穎を迎え入れて社稷を安定させれば大勲功でしょう」と司馬顒に対して勧め、司馬顒はこれに従った。司馬顒は司馬冏の罪状を上書し、自らは兵を集めて成都王司馬穎・新野王司馬歆・范陽王司馬虓と合流すると称し、先んじて司馬乂に司馬冏打倒の檄文を送った。司馬穎もまた慮志の反対を押し切って司馬顒の挙兵に呼応し、司馬歆と司馬虓もこれに呼応した。 12月、司馬顒の上書が朝廷に届くと、司馬冏は驚いて百官を集め「かつて、孫秀が反逆して司馬倫に簒奪を迫った時、社稷は傾覆し、困難を御する人は誰もいなかった。我は義兵を糾合して元凶を掃除し、臣下としての節操を取り戻させ、神明を昭らかにした。今、河間・長沙の二王(司馬乂と司馬穎)は(司馬顒の)讒言を信じ込み、大難を造ってしまった。忠臣・謀士を頼みとし、この不協を和さねばならぬ」と述べた。尚書令王戎と司空司馬越は「公の勲業は多大ですが、功績に対して賞で報いなかったので不満を招いてしまいました。二王(司馬顒と司馬穎)の勢いを抑えるのは難しく、大権を譲渡して王爵のまま私邸に帰るべきです」と進言したが、従事中郎葛旟は怒って「司馬倫の簒奪当時、天下の人々はこそこそと話し合うだけで、誰も先陣を切って反対する者はいなかった。明公は箭矢に危険を晒すのを承知で自ら甲冑を身に纏い、勇敢に突撃したので今の地位があるのだ。論功行賞が公平で無かったのは、三台や納言が政務を疎かにしているからであり、我々の責任ではない。讒言によって乱を起こした者は共に誅討すべきであり、なぜ偽の詔書のために身を退かなければならぬだろうか。このような発言をする者は斬るべきだ」と述べると、百官は色を失った。 洛陽にいた長沙王司馬乂は司馬冏討伐の兵を挙げると、百人余を率いて宮中に入り、諸門を閉じて恵帝の身柄を確保し、その後大司馬府を攻撃した。司馬乂は諸々の観閣や城門の焼き討ちを命じ、城内では矢が雨のように飛び交い、炎の勢いを前に百官は消火に励んだが、その過程で次々に命を落とした。恵帝は上東門に移ったが、御前に矢が集ったので、近臣は恵帝を矢から守った。三日間の戦いの末、司馬冏は劣勢となり、大司馬長史趙淵は何勗を殺して司馬冏を捕えると、司馬乂に投降した。司馬冏は恵帝の前に引き出され、恵帝はこれを痛ましく思って助命しようとしたが、司馬乂は近臣を叱責して司馬冏を連れ出した。司馬冏は恵帝の方を振り向いて助けを期待したが、閶闔門外で処刑された。司馬冏の首は六軍に示され、司馬冏に協力した者達は三族を誅滅され、死者は二千人を超えた。司馬冏の子である司馬超・司馬冰・司馬英は金墉城に幽閉され、司馬冏の弟である北海王司馬寔は王位を廃された。司馬冏の死体は西明亭で暴され、3日が経過しても収容する人はいなかったが、司馬冏の掾属であった荀闓らは、上表して葬儀の執り行いを乞い、許された。洛陽へ進撃していた李含らは司馬冏が死んだと聞き、長安に帰還した。
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