司馬冏討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:00 UTC 版)
司馬顒の側近である李含は洛陽の朝廷に仕えていたが、司馬冏の参軍皇甫商・右司馬趙驤らとの対立などから長安へ逃げ戻った。この時、李含は司馬冏討伐の密詔を得たと宣言し、詔書を偽造して司馬顒へ示した。さらには司馬顒へ「成都王(司馬穎)は陛下の弟であって大功があるのもかかわらず、朝廷に留まらずに封国に帰ったので、民心を得ております。斉王(司馬冏)は成都王を差し置いて専横の限りを尽くしており、朝廷から憎まれています。今、長沙王(司馬乂)に斉王を討つよう命じれば、兵が弱小である長沙王は必ずや殺されるでしょう。長沙王殺害の罪を理由に斉王を攻めて成都王を迎え入れ、社稷を安定させれば大勲功といえるでしょう」と勧めると、司馬顒はこれに従った。司馬顒は司馬冏の罪状を上書すると、檄文を各地に発布して「十万の兵を集めて成都王穎・新野王歆(司馬歆)・范陽王虓(司馬虓)と洛陽で合流する。長沙王乂に命じて斉王冏を邸宅に送り帰らせ、成都王穎に輔政を請う」と宣言し、李含を都督に任じて張方らと共に洛陽へ向けて進撃させた。諸軍は陰盤を通って新安に入り、洛陽から120里まで迫った。 同時期、司馬乂は洛陽城内から司馬顒に呼応し、司馬冏と3日間に渡る争いを繰り広げると、これに勝利して司馬冏を処断した。だが、司馬顒は司馬乂が敗れるのを期待していたので、これに不満を抱いた。
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