司馬倫討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:00 UTC 版)
301年1月、趙王司馬倫は側近の孫秀と謀って帝位を簒奪し、国政を掌握した。孫秀は司馬顒が関中で強兵を擁しているのを深く憂慮し、補佐を名目として臣下を派遣して監視に当たらせた。 その後、斉王司馬冏が司馬倫誅殺を掲げて挙兵すると、元安西参軍夏侯奭は侍御史を自称し、始平郡で数千の兵を集めて司馬冏に呼応した。夏侯奭は司馬顒にも協力する様使者を派遣したが、司馬顒は長史李含と謀議すると、司馬倫に加担する事を決め、主簿房陽と振武将軍張方を派遣して夏侯奭を討伐させた。夏侯奭は敗北を喫して捕らえられ、その同胞十数人と共に長安の市で腰斬に処された。 司馬冏からの使者が檄文を携えて司馬顒の下へ到来したが、司馬顒はその使者を捕えて司馬倫に送った。さらには司馬倫からの援軍要請に応じ、張方に関中の諸将を率いさせて司馬倫の援護を命じた。だが、後に司馬顒は司馬冏や成都王司馬穎の勢力が優勢である事を知って考えを翻し、龍驤将軍李含・領督護席薳らに張方軍を呼び戻させた。張方はこの時華陰まで進んでいたが、李含らは追いついてその行軍を中止させ、そのまま司馬冏側に寝返った。 4月、左将軍王輿が洛陽城内で政変を起こすと、孫秀を誅殺すると共に司馬倫を捕らえて幽閉し、恵帝を復位させた。これにより司馬倫の勢力は瓦解し、司馬顒は長安を出立して洛陽に入城した。司馬冏は司馬顒が初め敵対していた事を恨んでいたが、最終的に味方した事からこれを罪には問わず、侍中・太尉に抜擢し、三賜(弓矢・斧鉞・璧玉)を下賜した。しばらくして、司馬顒は長安に帰還した。
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