司馬乂討伐とは? わかりやすく解説

司馬乂討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:00 UTC 版)

司馬顒」の記事における「司馬乂討伐」の解説

303年3月侍中劉沈益州刺史羅尚梁州刺史許雄らを統率して李雄討伐命じられたが、司馬顒劉沈長安留め軍師任じ代わりに席薳を蜀に派遣したまた、張昌江夏反乱を起こすと、劉沈張昌討伐赴くよう詔が下されたが、司馬顒はこれを拒絶した劉沈は自らの意思州兵率いて藍田進んだが、司馬顒劉沈の兵を無理矢理奪ってこれを阻止した7月司馬乂参軍皇甫商の兄である皇甫重秦州刺史となると以前より皇甫商と対立していた李含はこれを甚だ憂慮し密かに謀殺目論んだ皇甫重はこれを察知すると、司馬乂秦州6郡の兵を率いて李含討伐する許可求めたが、司馬乂認めなかった。皇甫重はこれに従わず李含討とうとしたので、司馬顒金城郡太守隴西郡太守韓稚らに4郡の兵を率いさせ、冀城の皇甫重攻撃させた。また、司馬顒密かに侍中馮蓀・河南尹李含中書令卞粋らを洛陽派遣して司馬乂襲撃させたが、皇甫商は司馬顒動向警戒するよう司馬乂へ事前に忠告していたので、李含らの計画失敗してしまい、彼らは捕らえられ処刑された。司馬顒李含らが殺されたと聞くと、これを口実に司馬乂討伐の兵を挙げた。鄴にいる司馬穎もまたこれに呼応した8月司馬顒司馬穎と共に上書し「司馬乂論功は不公平であり、右僕射羊玄之左将軍皇甫と共に朝政を専断し、忠良の臣(李含ら)を殺害しました。羊玄之皇甫商を誅殺し、司馬乂封国に還らせるべきです」と述べた。だが、恵帝は詔を発して司馬顒司馬穎逆臣であると弾劾し司馬乂討伐命じた司馬乂雍州刺史劉沈にも参戦命じ劉沈はかつて司馬顒軍師任じられいたものの、司馬顒への恩義よりも恵帝への忠義優先し朝廷軍一員として長安進撃した司馬乂はさらに皇甫重への使者として弟の皇甫商を派遣し劉沈への加勢命じようとしたが、皇甫商を恨む親族司馬顒への密告行ったため、司馬顒皇甫商を捕えて殺害した。 この戦いそのもの304年1月司馬乂東海王司馬越の裏切りにより捕えられ、洛陽城内に入った張方司馬乂処刑した事で終結したが、劉沈の軍は以降司馬顒への抵抗続けた激戦の末司馬顒の軍は劉沈の軍を破り劉沈側近100余り逃亡していたところを捕えられた。劉沈司馬顒相対すると彼を詰ったので、司馬顒激怒して劉沈鞭打ち腰斬の刑処した司馬顒はまた劉沈参謀であった新平郡太守張光を「起兵してどのような計略画策したのだ」と責めたが、張光表情厳しくして「劉雍州劉沈)が我が計を用いなかったからこそ大王今生きておられるのですぞ!」と答えた司馬顒は彼を豪壮であるとして、罪には問わず祝宴参加させた。 3月司馬顒上書して司馬穎世継ぎ立てるよう求めると、司馬穎皇太弟となり、丞相職務そのまま都督中外諸軍事を兼任するようになった司馬顒太宰大都督・雍州牧に任じられた。

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司馬乂討伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)

司馬穎」の記事における「司馬乂討伐」の解説

こうして政治任されるようになった司馬穎だったが、これまでの功績誇って驕奢耽るようになり、司馬冏の時代以上に政治混乱するようになったまた、権力独占画策し司馬乂朝廷に留まっている事を邪魔に思うようになった。また一方河間王司馬顒は、司馬冏打倒呼び掛け当初より司馬乂司馬冏敗北する事を想定し、それを口実司馬冏除いて実権を得る事を目論んでいたため、その企み果たされなかった事に不満を抱いていた。かくして303年7月司馬顒による司馬乂討伐の兵が挙がると、司馬穎盧志諫言振り切ってこの挙兵への呼応決めた8月司馬穎司馬顒と共に上書し「司馬乂論功は不公平であり、右僕射羊玄之左将軍皇甫と共に朝政を専断し、忠良の臣を殺害しました。羊玄之皇甫商を誅殺し、司馬乂封国に還らせるべきです」と述べた。しかしこれに対して恵帝は詔を発し司馬顒独断大軍動員し京都洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍率いて姦逆の臣を誅殺する」と述べ司馬乂討伐命じた司馬穎司馬顒軍と朝廷軍戦い1年近く渡りこの間司馬穎宦官の孟玖らの讒言受けて、かつて自身助命嘆願し、この戦いで将軍任じていた陸機を、側近孫拯や弟の陸雲始め、彼らの一族もろとも処刑してしまった。朝廷内では司馬乂司馬穎兄弟であった事から両者への和解提案があり、また司馬乂側から和解求め書状送られたものの、司馬穎はこれらを拒絶した司馬穎司馬顒の軍は連戦連敗ではあったが、合戦長期渡ったので朝廷軍本拠地である洛陽城内は食糧欠乏しており、また司馬顒軍の張方による引用水の補給ルート遮断などもあり、朝廷軍はさらに窮地瀕した。そして朝廷軍一員であった東海王司馬越の裏切りにより洛陽城門開かれ司馬乂殺害されたことで戦い終結し司馬穎司馬顒と共に無事に入城果たした

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