司馬乂討伐
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303年3月、侍中劉沈は益州刺史羅尚・梁州刺史許雄らを統率して李雄討伐を命じられたが、司馬顒は劉沈を長安に留めて軍師に任じ、代わりに席薳を蜀に派遣した。また、張昌が江夏で反乱を起こすと、劉沈は張昌討伐に赴くよう詔が下されたが、司馬顒はこれを拒絶した。劉沈は自らの意思で州兵を率いて藍田に進んだが、司馬顒は劉沈の兵を無理矢理奪ってこれを阻止した。 7月、司馬乂の参軍皇甫商の兄である皇甫重が秦州刺史となると、以前より皇甫商と対立していた李含はこれを甚だ憂慮し、密かに謀殺を目論んだ。皇甫重はこれを察知すると、司馬乂へ秦州6郡の兵を率いて李含を討伐する許可を求めたが、司馬乂は認めなかった。皇甫重はこれに従わずに李含を討とうとしたので、司馬顒は金城郡太守游楷・隴西郡太守韓稚らに4郡の兵を率いさせ、冀城の皇甫重を攻撃させた。また、司馬顒は密かに侍中馮蓀・河南尹李含・中書令卞粋らを洛陽に派遣して司馬乂を襲撃させたが、皇甫商は司馬顒の動向を警戒するよう司馬乂へ事前に忠告していたので、李含らの計画は失敗してしまい、彼らは捕らえられて処刑された。司馬顒は李含らが殺されたと聞くと、これを口実に司馬乂討伐の兵を挙げた。鄴にいる司馬穎もまたこれに呼応した。 8月、司馬顒は司馬穎と共に上書し「司馬乂の論功は不公平であり、右僕射羊玄之・左将軍皇甫商と共に朝政を専断し、忠良の臣(李含ら)を殺害しました。羊玄之と皇甫商を誅殺し、司馬乂を封国に還らせるべきです」と述べた。だが、恵帝は詔を発して司馬顒と司馬穎を逆臣であると弾劾し、司馬乂に討伐を命じた。司馬乂は雍州刺史劉沈にも参戦を命じ、劉沈はかつて司馬顒に軍師に任じられていたものの、司馬顒への恩義よりも恵帝への忠義を優先し、朝廷軍の一員として長安に進撃した。司馬乂はさらに皇甫重への使者として弟の皇甫商を派遣し劉沈への加勢を命じようとしたが、皇甫商を恨む親族が司馬顒への密告を行ったため、司馬顒は皇甫商を捕えて殺害した。 この戦いそのものは304年1月、司馬乂が東海王司馬越の裏切りにより捕えられ、洛陽城内に入った張方が司馬乂を処刑した事で終結したが、劉沈の軍は以降も司馬顒への抵抗を続けた。激戦の末司馬顒の軍は劉沈の軍を破り、劉沈は側近100人余りで逃亡していたところを捕えられた。劉沈は司馬顒と相対すると彼を詰ったので、司馬顒は激怒して劉沈を鞭打ち、腰斬の刑に処した。司馬顒はまた劉沈の参謀であった新平郡太守張光を「起兵してどのような計略を画策したのだ」と責めたが、張光は表情を厳しくして「劉雍州(劉沈)が我が計を用いなかったからこそ、大王は今生きておられるのですぞ!」と答えた。司馬顒は彼を豪壮であるとして、罪には問わずに祝宴に参加させた。 3月、司馬顒は上書して司馬穎を世継ぎに立てるよう求めると、司馬穎は皇太弟となり、丞相の職務はそのままで都督中外諸軍事を兼任するようになった。司馬顒は太宰・大都督・雍州牧に任じられた。
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司馬乂討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
こうして政治を任されるようになった司馬穎だったが、これまでの功績を誇って驕奢に耽るようになり、司馬冏の時代以上に政治は混乱するようになった。また、権力の独占を画策し、司馬乂が朝廷に留まっている事を邪魔に思うようになった。また一方の河間王司馬顒は、司馬冏打倒の呼び掛け当初より司馬乂が司馬冏に敗北する事を想定し、それを口実に司馬冏を除いて実権を得る事を目論んでいたため、その企みが果たされなかった事に不満を抱いていた。かくして303年7月、司馬顒による司馬乂討伐の兵が挙がると、司馬穎は盧志の諫言を振り切ってこの挙兵への呼応を決めた。8月、司馬穎は司馬顒と共に上書し「司馬乂の論功は不公平であり、右僕射羊玄之・左将軍皇甫商と共に朝政を専断し、忠良の臣を殺害しました。羊玄之と皇甫商を誅殺し、司馬乂を封国に還らせるべきです」と述べた。しかしこれに対して恵帝は詔を発し「司馬顒は独断で大軍を動員し、京都(洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍を率いて姦逆の臣を誅殺する」と述べ、司馬乂に討伐を命じた。 司馬穎・司馬顒軍と朝廷軍の戦いは1年近くに渡り、この間に司馬穎は宦官の孟玖らの讒言を受けて、かつて自身が助命を嘆願し、この戦いでは将軍に任じていた陸機を、側近の孫拯や弟の陸雲を始め、彼らの一族もろとも処刑してしまった。朝廷内では司馬乂と司馬穎は兄弟であった事から両者への和解の提案があり、また司馬乂の側からも和解を求める書状が送られたものの、司馬穎はこれらを拒絶した。司馬穎・司馬顒の軍は連戦連敗ではあったが、合戦は長期に渡ったので朝廷軍の本拠地である洛陽城内は食糧が欠乏しており、また司馬顒軍の張方による引用水の補給ルートの遮断などもあり、朝廷軍はさらに窮地に瀕した。そして朝廷軍の一員であった東海王司馬越の裏切りにより洛陽の城門が開かれ、司馬乂が殺害されたことで戦いは終結し、司馬穎は司馬顒と共に無事に入城を果たした。
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