司馬穎・司馬顒の時代とは? わかりやすく解説

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司馬穎・司馬顒の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:15 UTC 版)

恵帝 (西晋)」の記事における「司馬穎・司馬顒の時代」の解説

303年5月司馬顒司馬穎司馬乂討伐兵を挙げると、恵帝は詔を発し司馬顒独断大軍動員し京都洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍率いて姦逆の臣を誅殺する。」と述べ司馬乂司馬顒司馬穎討伐命じ、自らも軍を率いて洛陽城東から緱氏入り司馬穎将軍牽秀を攻撃して撤退させるなどの活躍見せた。しかし司馬乂の軍は司馬穎の軍に連戦連勝であったものの、戦闘長期渡ったため城内食糧欠乏してしまい、洛陽城内にいる東海王司馬越司馬乂には勝ち目がないと判断して殿中諸将と共に司馬乂捕らえ司馬穎らの軍に引き渡してしまった。これを聞いた恵帝司馬乂の官を免じて金墉城に幽閉する旨の詔を発し並びに司馬穎丞相任じたその間司馬乂司馬潁腹心張方により処刑された。 2月司馬顒の上書により、皇后羊献容皇太子司馬覃廃し司馬穎皇太弟とした。7月東海王司馬越が右衛将軍陳眕・上官巳と共に司馬穎討伐兵を挙げると、恵帝は自ら軍を率いて親征行った司馬穎配下石超防戦命じ石超の軍に蕩陰奇襲受けた皇帝軍は大敗喫し、この時恵帝の頬にも三本の矢当たって顔に傷を負った百官侍御恵帝見捨てて逃走したが、ただ侍中嵆紹だけは身を挺して恵帝守った司馬穎の軍の兵が襲い掛かる嵆紹乗輿から引きずり出され恵帝は「忠臣である。殺してはならん!」と叫んだが、兵士たちは「太弟司馬穎)の命では、犯してはならぬのは、陛下ただ一人としいわれております」と述べ命を無視した如く降り注ぐ矢により、嵆紹遂に恵帝のすぐ側で射殺され血飛沫が服に飛び散った恵帝はその死を目の当たりにして、深く哀しみ嘆いたという。恵帝馬車から転げ落ち、この時皇帝玉璽紛失したとされる石超恵帝の姿を見つけると陣営に連れ帰り恵帝飢え渇き訴えると、石超恵帝軽視していたので、季節外れの秋与えたという。司馬穎盧志派遣して恵帝を鄴に迎え入れ側近は血の付いた服を洗おうとしたが、恵帝は「これは嵆侍中の血である。拭き取ってはならん!」と声を荒げたという。 8月都督幽州諸軍王浚と東嬴公司馬騰司馬穎討伐掲げて決起すると、司馬穎はこれに連敗したので恵帝連れて洛陽へ逃走しよう考えた盧志恵帝のいる部屋に入ると、恵帝盧志へ「なぜ散敗したのに、朕の前に来たのか」と尋ねた盧志は「賊は鄴城から80里の所に迫っており、人士一朝にして驚き離散しました。太弟司馬穎)は今、陛下奉じて洛陽還りたいと考えております」と応えると、恵帝は「甚だ良し」と答えた。こうして盧志らは恵帝乗った犢車を御して鄴を出発した。だが、一行金銭物資不充分状況出発したので、恵帝は詔を発して宦官隠し持っていた銭三千借り受け道中食物得た。夜は恵帝宦官と同じ布団使い食事は瓦盆に盛られるというあり様であった温県に入ると、恵帝先祖の陵に赴いたが、この時靴を無くしたので、従者の靴を履いて陵墓向かって涙ながらに拝礼したという。洛陽を守る張方は子の張羆に兵を与えて一行迎え入れさせ、恵帝張方の車に乗って洛陽へ帰還した張方恵帝拝謁しようとすると、恵帝は車を下りてそれを止めさせた。恵帝宮殿帰ったと伝わると、四散した百官次第集まり始めた11月、再び永安改元した。張方長安への遷都目論み、恵帝宗廟への拝謁勧めて連れ出そうとしたが、恵帝拒否した。その為、張方は兵を率いて宮殿に入ると、強引に自らの車に恵帝乗せようとした驚いた恵帝後園竹林逃げたが、兵士達恵帝連れ出して無理矢理車に乗せた恵帝涙ながらに従う他なく、ただ盧志だけが側に侍って慰めた恵帝張方伴われ長安移送された。途中新安通った時、恵帝は馬から落ちて足をくじいてしまったが、尚書高光は面衣を進呈したので、恵帝喜んだという。司馬顒一行出迎えると、進み出て拝謁しようとしたが、恵帝は車を降りてそれを止めさせた。12月、詔を発し司馬穎皇太弟から廃して謹慎命じ、代わって司馬熾(後の懐帝)を皇太弟立てたまた、司馬顒都督中外諸軍事に、張方を中領軍・録尚書事・領京兆尹任じた同月永興改元した。 305年7月司馬越皇帝奪還掲げて徐州決起し東平王司馬楙・王浚范陽王司馬虓・平昌公司らもまたこれに呼応した恵帝密かに劉虔を派遣し司馬越司馬楙正式に官爵与えた10月司馬顒恵帝の詔を奉じて司馬越らに封国帰還するよう命じたが、応じなかった。306年5月司馬越配下祁弘らは長安攻略し恵帝牛車乗せて洛陽帰還した恵帝太弟太保鎮西将軍任じ関中を守らせた。6月洛陽帰還して旧殿に戻ると、恵帝は涙を流したという。その後羊献容皇后復位させ、太廟拝謁した。さらに大赦下して光熙改元した。8月恵帝南中郎将劉陶逃亡中の司馬穎逮捕命じた9月頓丘郡太守馮嵩が司馬穎捕らえて鄴に送還し翌月長史劉輿により殺害された。 11月洛陽の顕陽殿にて、麺餅(中国語版)(穀物粉主体とした軽食類)を食べて食中毒になり、48歳崩御した。司馬越毒殺したともいわれる遺体太陽陵に埋葬された。八王の乱恵帝の死の翌月司馬越新帝として恵帝異母弟司馬熾擁立する事で収拾されたが、もはや西晋衰亡とめようもなく、建興4年316年)に滅亡した恵帝の死から僅か10年後であった。

※この「司馬穎・司馬顒の時代」の解説は、「恵帝 (西晋)」の解説の一部です。
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