洛陽へとは? わかりやすく解説

洛陽へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)

陶侃」の記事における「洛陽へ」の解説

後に、張夔陶侃孝廉推挙した陶侃洛陽到着すると、何度張華拝謁した。だが張華初め彼の事をただの遠方辺鄙な地から来た人として扱い、あまり相手にしなかった。しかし、陶侃何度も彼の下を訪れ扱い悪さにも顔色一つ変えなかった。後に張華陶侃語り合うようになり、彼の才知大い驚いたという。その後郎中任じられた。 伏波将軍孫秀司馬倫側近とは別人)は孫呉宗室であったが、名望高くなかった。そのため、北方士族彼の属官になる事を恥と考えていた。孫秀は、陶侃が寒門の出であったことから、彼を召し出して舎人とした。 当時豫章国の郎中令であった楊晫は陶侃同郷で、郷里での評判高い人物であった陶侃彼の下を訪れると、楊晫は「易経では『節操をかたく守り方正であるならば、事を成し遂げるには十分である』と言うが、陶士行はまさにそのような人物であるな」と称えた。そして、陶侃と共に車に乗ると、彼を江南名士である中書郎の顧栄引き合わせた顧栄もまた彼を大変優れた人物だと評価した吏部郎の温雅は楊晫に「汝はどうしてそのような小人と車に乗り合わせているのかね」と問うと、楊晫は「彼は非凡な才を持った人物ですぞ」と反論した清談指導者であった尚書の楽広は荊州揚州名士議論を交わそうと思い人集めると、武庫令の黄慶は陶侃薦めた。これに反対する者が何人かいたが、黄慶は「この人前途遠大である。何も疑うことは無い」と断じた。後に黄慶が吏部令史昇ると、彼は陶侃推挙した。これにより、陶侃武岡県令となった。しかし、太守呂岳不仲となり、官位捨てて郷里帰った。後に、郡の小中正となった

※この「洛陽へ」の解説は、「陶侃」の解説の一部です。
「洛陽へ」を含む「陶侃」の記事については、「陶侃」の概要を参照ください。

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