第一次洛陽侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
4月、兵を進めて許昌へ侵攻してこれを占領すると、府庫を暴いて武具を略奪し、装備を揃えた。当時、太傅司馬越は鄄城に駐屯していたが、彼は王弥が洛陽へ侵攻して来る事を警戒し、司馬王斌に甲士5千を与えて洛陽の護衛を命じた。涼州刺史張軌(前涼の初代君主)もまた洛陽救援の為、督護北宮純に将兵を与えて洛陽へ派遣した。 5月、王弥は洛陽目掛けて再び出撃し、轘轅関より洛陽盆地へ侵入すると、晋軍を伊北で撃ち破った。洛陽朝廷は大いに震え上がり、宮城の門は昼でさえ全て閉ざされたままとなった。数日して遂に王弥は洛陽城へ到達し、城南の津陽門に駐屯した。司徒王衍は王斌と共に出撃してこれを阻み、さらに北宮純が勇士百人余りを率いて王弥軍に突撃した。これにより王弥は大敗を喫し、建春門を焼いて東へ撤退したが、王衍は左衛将軍王乗に追撃を命じた。王弥軍は七里澗において追いつかれ、再び敗戦を喫した。
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