第一次淀古城の戦い
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1504年(永正元年)に入ると赤沢朝経と細川政元が対立するようになる。政元は同年3月9日に摂津守護代の薬師寺元一に槇島城に攻城するように命じたが、赤沢軍は600–700兵を従えて城から撤兵したようである。それを知った畠山尚順軍は槇島城と並び交通、軍事の要所であった淀古城を攻城してきた。細川軍は神保与三佐衛門を城主としていたようだが、薬師寺元一、薬師寺長忠兄弟、香西元長、内藤軍も入城させ、畠山軍からの攻城戦に備えた。 このとき別の局面が展開される。細川軍に属していた薬師寺元一が、政元の養子細川澄元を擁立し、政元に謀反を仕掛けた。これに呼応した山城国人衆と、槇島城から赤沢軍が、援軍として淀古城に籠もった。しかし、元一の弟長忠は、細川軍に属したまま兄と袂を分かち、香西元長と共に淀古城を攻城、淀古城は細川軍の手に落ちた。淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、元一は捕えられ同年9月20日京で自害、赤沢朝経は大和へ敗走した。 この戦いが契機となり畠山氏と細川氏との対立が本格化、山城、河内、和泉、摂津、大和に戦線が拡大していく。この戦いでは細川軍に属した薬師寺長忠、香西元長であったが、3年後の1507年(永正4年)で永正の錯乱で政元を暗殺、政元のもう1人の養子細川澄之を擁立したが、すぐに澄元一派に反撃され、澄之と共に戦死した。 その後細川氏の被官が代々淀古城を治めていたが、細川政権から三好政権に移っていき、1559年(永禄2年)には三好長慶が畿内を統一すると淀古城も細川氏綱が城主となったが、1564年(永禄7年)に氏綱が死去すると、長慶の甥に当たる三好義継が城主となり、ついで松永久秀方の武将が城主となったようである。しかし、1566年(永禄9年)7月に勝竜寺城と共に三好三人衆軍に攻城されると、三好長逸方の金子某が城主となったようである。1568年(永禄11年)に織田信長が上洛を果たすと、淀古城も織田軍の焼き討ちにあい、落城してしまった。
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