第一次淀古城の戦いとは? わかりやすく解説

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第一次淀古城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 14:10 UTC 版)

淀古城」の記事における「第一次淀古城の戦い」の解説

1504年永正元年)に入ると赤沢朝経細川政元対立するうになる。政元は同年3月9日摂津守護代薬師寺元一槇島城攻城するように命じたが、赤沢軍は600700兵を従えて城から撤兵したようである。それを知った畠山尚順軍は槇島城並び交通軍事要所であった淀古城攻城してきた。細川軍は神保与三衛門城主としていたようだが、薬師寺元一薬師寺長忠兄弟香西元長内藤軍も入城させ、畠山軍からの攻城戦備えた。 このとき別の局面展開される細川軍に属していた薬師寺元一が、政元の養子細川澄元擁立し、政元に謀反仕掛けた。これに呼応した山城国人衆と、槇島城から赤沢軍が、援軍として淀古城に籠もった。しかし、元一の弟長忠は、細川軍に属したまま兄と袂を分かち香西元長と共に淀古城攻城淀古城細川の手落ちた淀古城に籠もっていた四宮長能は自害、元一は捕えられ同年9月20日京で自害赤沢朝経大和敗走した。 この戦い契機となり畠山氏細川氏との対立本格化山城河内和泉摂津大和戦線拡大していく。この戦いで細川軍に属した薬師寺長忠香西元長であったが、3年後1507年永正4年)で永正の錯乱で政元を暗殺、政元のもう1人養子細川澄之擁立したが、すぐに澄元一派反撃され、澄之と共に戦死したその後細川氏被官代々淀古城治めていたが、細川政権から三好政権移っていき、1559年永禄2年)には三好長慶畿内統一する淀古城細川氏綱城主となったが、1564年永禄7年)に氏綱が死去すると、長慶の甥に当たる三好義継城主となり、ついで松永久秀方の武将城主となったようである。しかし、1566年永禄9年7月勝竜寺城と共に三好三人衆軍に攻城されると、三好長逸方の金子某が城主となったようである。1568年永禄11年)に織田信長上洛を果たすと、淀古城織田軍の焼き討ちにあい、落城してしまった。

※この「第一次淀古城の戦い」の解説は、「淀古城」の解説の一部です。
「第一次淀古城の戦い」を含む「淀古城」の記事については、「淀古城」の概要を参照ください。

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