第一次玄作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 07:51 UTC 版)
第一次玄作戦は回天の訓練、技術的準備が完了したとき、偶然内海西部で実行することになり、潜水艦3隻(伊36、伊37、伊47)に各艦4機計12機の回天を搭載して決行された。目標はウルシーに潜水艦2隻(伊36、伊47)、コッソル水道に1隻(伊37)が向けられた。予定の月明期はやめて、隠密行動重視から月のない夜に行動して、早朝に攻撃する計画になった。豊田副武連合艦隊長官は11月5日に回天攻撃を下令。11月8日回天菊水隊が大津島から出撃、19日に現地に到着した。 当時ウルシー泊地にはレイテ島沖から帰還した第38.3任務群の空母4隻(タイコンデロガ、エセックス、ラングレー、サン・ジャシント)、戦艦2隻(ワシントン、ノースカロライナ)が停泊していた。20日午前3時28分から42分にかけて伊号47潜水艦より佐藤章少尉、渡辺幸三少尉、仁科関夫中尉(回天の発案及び開発担当者)、福田斉中尉の搭乗する回天4基が発進。続いて伊号36潜水艦からも回天4基が発進しようとするが故障により4基中3基が発進できず午前4時54分に今西太一少尉の搭乗する回天1基が発進した。 結果は二基が座礁し爆発、一基が泊地外に出ようとしていた重巡洋艦ペンサコーラを追尾するものの駆逐艦ケースの体当たりにより沈没、残る二基が泊地進入に成功し、1基が米タンカー「ミシシネワ」へ命中し轟沈させた。もう一基は軽巡洋艦モービルに突入するも至近弾で沈没したところを護衛駆逐艦ラールの爆雷攻撃により破壊された。 コッソルに向かった伊号37潜水艦は未帰還で消息不明となったが、戦後前日19日に敵駆逐艦に撃沈されていたことがわかった。 軍令部、連合艦隊の関心は戦果確認で11月16日と11月20日の偵察を予定したが、両日ともに偵察ができず、23日に偵察を行い戦果確認はできなかった。当日ウルシーで空襲警報、作戦緊急電があり成功と思われた。このためウルシーで空母2隻、戦艦2隻、コッソル水道で空母1隻を撃沈したと戦果を過大判定した。
※この「第一次玄作戦」の解説は、「玄作戦」の解説の一部です。
「第一次玄作戦」を含む「玄作戦」の記事については、「玄作戦」の概要を参照ください。
第一次玄作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 04:30 UTC 版)
詳細は「捷号作戦」を参照 10月8日、伊47は第15潜水隊(司令揚田清猪大尉)に編入された。第15潜水隊は軍隊区分において第一潜水部隊を編成していた。10日午前11時頃、連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将は玄作戦参加以外の潜水艦について、出撃準備を命じた。先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官)は横須賀で整備中の伊47に整備と戦備促進を命じた。 12日、連合艦隊は「第一潜水部隊ハ玄作戦外ノ潜水艦ヲ出撃セシメ敵機動部隊ヲ撃滅」(連合艦隊電令作第343号)と命じた。17日午前8時35分、連合艦隊はGF電令作第351号をもって捷一号作戦警戒を発令し、午前8時48分に「先遣部隊潜水艦全力の中南比方面への急速出撃準備」を下令する。先遣部隊指揮官は玄作戦準備中の4隻(伊38、伊41、伊44、伊46)に出撃や出撃準備を命じ、午前9時2分には伊47に対しても出撃準備を下令した。同17日20時36分、連合艦隊はGF電令作第358号をもって「先遣部隊指揮官ハ臺灣東方ノ敵機動部隊殲滅ノタメ全力ヲ以テ進出セシムベシ」と命じた。この時点で、フィリピン東方海域で作戦中の日本海軍潜水艦は4隻、出撃可能潜水艦は10隻にすぎなかった。整備中の3隻(伊36、伊37、伊47)は出撃を期待できず、玄作戦にまわされた。 詳細は「玄作戦」および「丹作戦」を参照 折田艦長の回想によれば、10月18日に慶應義塾大学日吉寮の連合艦隊司令部に呼び出されて激励され、伊47に戻ると横須賀海軍工廠での特殊工事を命じられた。続いて伊47は呉軍港に回航され、追加の工事をおこなった。玄作戦にむけて出撃準備をしていた大型潜水艦8隻(うち2隻は予備)のうち7隻が10月中旬以降の捷一号作戦に投入されて伊36しか残っておらず、連合艦隊は内地所在の伊37と伊47を急遽、玄作戦に投入したのである。また回天の準備も進まず、玄作戦実施時点(11月8日)で12基が整備されたにすぎなかった。 特攻兵器の人間魚雷「回天」を搭載する工事を終えた伊47は、大津島に移動した。第15潜水隊司令(伊36座乗)が指揮する回天特別攻撃隊(玄作戦、菊水隊)3隻(伊36、伊37、伊47)として、11月5日に豊田副武連合艦隊司令長官より作戦命令を受領する。11月8日朝、菊水隊は大津島を出港する。伊47の艦橋側面には菊水マークが描かれ、潜望鏡2本をマストにみたてて「非理法権天」と「南無八幡大菩薩」の幟をひるがえした。菊水隊は四国佐田岬沖で散開し、別個にウルシー環礁へむかった。事前偵察と戦果確認のため、トラック泊地より彩雲が発進して作戦に協力した。 回天出撃前、折田艦長は特別に造らせたアイスクリームを回天搭乗員4名におくった。20日0030、ウルシー付近で浮上し、佐藤章少尉(兵科3期予備士官)、渡辺幸三少尉(兵科3期予備士官)が伊47甲板上から回天に乗り込んだ。その後伊47は潜航し、0300に発進予定地点のマガヤン島南東4浬地点付近に到着する。伊47は潜航中であり、黒木博司大尉の遺骨が入った白木の箱を首にかけた仁科関夫中尉(兵71期)と、福田斉中尉(海機53期)は、交通筒を通って回天に乗り込んだ。折田艦長は主要航路のムガイ水道を避け、南隣のマガヤン島とローラン島の間の狭い水道を通過して泊地に入った後、それぞれ指示された方向の敵艦を攻撃するよう各艇に命令した。0328以降、5分間隔で0342までに回天4基全てが発進した。発進完了後、伊47は直ちに浮上し、20ノットの速力で南東へ避退した。0416、艦尾方向にオレンジ色の大火柱が上がるのを望見、0422、同一方向に再度閃光と火焔を望見した。その後なおも浮上航走中、右舷艦首前方、距離6000mの位置に米駆逐艦がいるのを発見し急速潜航した。0416の爆発は米測量艦サムナー(英語版)(USS Sumner, AGS-5)からも目撃されており、その位置はプグリュー島の1.5浬南方のサンゴ礁であるとされた。これは、伊47が回天を発進した場所が発進予定地点から少し離れた位置だったためで、サンゴ礁に座礁した回天が自爆したことによるものであった。その後、1132にも同じ地点で座礁した回天の自爆による爆発をサムナーと、修理を受けていた軽巡リノ(USS Reno, CL-96)が報告している。また、1基が0547に給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)に命中し、同艦を撃沈した。0600、軽巡モービル(USS Mobile, CL-63)が防潜網付近の海面で水煙を発見。そのあと潜望鏡が2~4ノットの速力で真っ直ぐに接近してくるのを発見して、5インチ砲と機銃で射撃を開始。機銃の集中射撃が多数命中したが、潜航艇は潜航し、その後水面直下を走る潜水艦が起こすような小さな波が左舷正横に近づき、50mでそれも見えなくなった。モービルから「魚雷が艦首の下を通り抜けた」との通報を受けて、出動可能な護衛駆逐艦群が付近の捜索を開始した。0608、モービルは隣に停泊中の軽巡ビロクシ(USS Biloxi, CL-80)との間の海面に渦を発見。護衛駆逐艦ラール(英語版)(USS Rall, DE-304)が礁湖を横切ってモービルに近づき、両軽巡の間に発生している渦に向けて、0647に爆雷を投下。その後到着した護衛駆逐艦2艦隻も渦の上を航過して浅深度に設定した爆雷を投下した。0653 ラールが2回目の爆雷を投下したあと海面に泳ぐ日本兵を発見した。波の中に日本兵の顔が見えたが長くは浮かんでいなかった。現場を捜索した米軍の短艇は女学生が差入れた座布団と日本語が書かれた木片を拾い上げた。3日後、日本兵の遺体がこの爆雷投下地点の付近で揚収された。折田は「回天隊はタンカーの他に空母を撃沈したはず、アメリカは本当の被害を隠していると思う」と回想している。 22日、及川古志郎軍令部総長は昭和天皇に菊水隊の戦果や戦闘状況を奏上した。30日、呉に到着した。菊水隊の戦果は、正規空母2隻・戦艦3隻撃沈と認定された。12月8日、連合艦隊は菊水隊について全軍に布告した。
※この「第一次玄作戦」の解説は、「伊号第四十七潜水艦」の解説の一部です。
「第一次玄作戦」を含む「伊号第四十七潜水艦」の記事については、「伊号第四十七潜水艦」の概要を参照ください。
- 第一次玄作戦のページへのリンク