黒木博司
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黒木 博司(くろき ひろし、1921年(大正10年)9月11日 - 1944年(昭和19年)9月7日)は、日本の海軍軍人。海軍機関学校51期。太平洋戦争の末期、仁科関夫中尉とともに人間魚雷「回天」を創案し、自らも搭乗して訓練中の事故で殉職した。最終階級は海軍少佐。
- ^ 海軍機関学校(51期)に入ったのは岐阜県では黒木1名だったという。
- ^ 海機51期に相当する海軍兵学校70期には、黒木と共に殉職した樋口孝、回天特攻第一陣(菊水隊、伊37乗艦)となった上別府宣紀、神風特別攻撃隊第一号の関行男、終戦当日に宇垣纏中将と共に特攻した中津留達雄、菊水隊(仁科関夫)が乗艦した伊47航海長重本俊一等がいる[5]。
- ^ 日露戦争の旅順港閉塞作戦に決死隊として参加、戦死して軍神と称えられた広瀬武夫少佐(戦艦朝日水雷長)のこと。
- ^ 黒木は海軍機関学校在学中、水雷術の教官から「最も理想とする魚雷は何か」という問いに対し、「人間が操縦すれば百発百中」と回答したという。この回答から、在学中(1938年-1941年)には既に「人間魚雷」の構想を持っていたことが推察される。
- ^ 人間魚雷を考案して海軍中央に開発を進言した潜水艦乗組員は複数人おり[21]、必死兵器開発構想は、黒木や仁科のだけの特異な動きではない[22]。
- ^ (1944年6月頃、原田周三大尉に語った言葉)[24]六月「現戦局ニ対シ急務所見」各部に提出す。終に軍令部、艦本賛成せり。仮称人間魚雷先鋒採用と決定せり。目下着々として準備中。戦果を求めず体当り戦法の完成を求むるのみ。日本の道ここにあり。国難打開の道ここにあるを身を以て実践せんのみ。航空方面にこの戦法の採用を希う。体当り戦闘機の計画を残して死せん。/現部隊長は国賊なり。信念なく誠意なし。職責に対してしかり。/問題は全く人にあり。決死捨身の覚悟なきにあり。その中何とかなる、最後のときはやると楽観して怠慢なるにあり。国民然り。特に中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以、全く物にあらず人にあり。
- ^ (同僚の渡辺定に語った言葉)[25]自分は身を挺して回天の研究に没頭しているが唯此の兵器のみを以て厖大なる敵の物量を撃破出来ようとは夢にも考えていない。自分の狙いは此の兵器を縦横に駆使して敵に体当りする精神を重視し此の特攻精神を速かに海軍全般に徹底せしめんが為である。特に航空機関係者の覚醒を促し海空一体となって敵に殺到する以外に絶対に皇国を護持するの道なしと信ずる。
- ^ 楠公社の祭神は楠木正成だが、これは1944年11月8日の「回天」初出撃の部隊名「菊水隊」が、楠木正成の家紋である「菊水」に由来するためである。
- ^ 波浪大ナルトキ浅深度高速潜航ノ可否ハ実験ヲ要ス。確タル成績ヲ得ルマデ厳禁ヲ可ト思考ス(若干処置ヲ誤リシハ、当所ノ水深ヲ十二米ト判断シ、実深ヲ知ル
能 ハザリシニヨル)早急ニ過酸化曹達ヲ準備スベシ - ^ 事故ニ備ヘテ、用便器ノ準備ヲ要ス(特ニ筒内冷却ノ為メ)
- ^ 陛下ノ艇ヲ沈メ
奉 リ、就中 ○六ニ対シテハ、畏 クモ、陛下ノ御期待大ナリト拝聞シ奉リ居リ候際、生産思ハシカラズ、而 モ最初ノ実験者トシテ多少ノ成果ヲ得ツツモ、充分ニ後継者ニ伝フルコトヲ得ズシテ殉職スルハ、洵 ニ不忠申訳ナク慙愧 ニ耐ヘザル次第ニ候/必死必殺ニ徹スルニアラズンバ、而モ飛機ニ於テ早急ニ徹スルニアラズンバ、神州不滅モ保シ難シト存ジ奉リ候/必ズ信州挙 ッテ明日ヨリ即刻体当タリ戦法ニ徹スルコトヲ確信シ神州不滅ヲ疑ハズ、欣 ンデ茲 ニ予 テ覚悟ノ殉職ヲ致スモノニ候 - ^ 男子やも我が事ならず朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
国を思ひ死ぬに死なれぬ益荒雄 が 友々よびつつ死してゆくらん - ^ 〇四〇〇死ヲ決ス。心身爽快ナリ。
- ^ 死せんとす
益良男子 のかなしみは 留め護らん 魂の空しき - ^ 〇四〇五絶筆、樋口大尉ノ最後従容トシテ見事ナリ。我又同ジクセン。
- ^ 〇六〇〇猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。
- ^ 指揮官ニ報告/予定ノ如ク航走、一八・一三潜入時突如傾斜DOWN二〇度トナリ、海底ニ沈座ス。ソノ状況、推定原因、処置等ハ、同乗指導官黒木大尉ノ記セル通リナリ。事故ノタメ訓練ニ支障ヲ来シ、マコトニ申訳ナキ次第ナリ。/後輩諸君ニ 犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ/訓練中事故ヲ起シタルハ、戦場ニ散ルベキ我々ノ最モ遺憾トスルトコロナリ。シカレドモ犠牲ヲ乗リ越エテコソ、発展アリ。我々ノ失敗セシ原因ヲ探求シ、帝国ヲ護ルコノ種ノ発展ノ基ヲ得ンコトヲ。/周密ナル計画、大胆ナル実施。/〇四・三五呼吸著ク困難ナリ/生即死。〇四・四〇/国家斉唱ス。〇四・四五/〇六・〇〇猶二人生ク。行ヲ共ニセン。/万歳/〇六・一〇(以上、樋口孝)
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 46.
- ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 259.
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 47.
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 49.
- ^ a b 「昭和16年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第746号 」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083100 p.3中津留、p.4関、p.5重本、p.6樋口、p.9上別府、p.11黒木(補海軍機關少尉候補生)、p.27黒木(山城乗組ヲ命ス)
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 52–58平泉澄との出会い
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 57–58.
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 58–62分隊員とともに
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 60–61.
- ^ 「昭和17年6月1日(発令6月1日付)海軍辞令公報(部内限)第872号 」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085700 p.1黒木(補海軍機関少尉)、p.23黒木(補山城乗組)
- ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 256–261二人の軍人/イ 黒木博司少佐
- ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 257.
- ^ 「昭和17年7月15日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第900号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086300
- ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 258.
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 62–67決意
- ^ a b 落日の日本艦隊 2014, pp. 260–261.
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 67b.
- ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 267–269回天/イ 着想
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 67a-77鉄石之心
- ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 261–266二人の軍人/ロ 仁科関夫少佐
- ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 268–269.
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 70–72.
- ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 270–271.
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 74–75.
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 73.
- ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 288–292連合軍の中部太平洋進攻作戦
- ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 290〔トラック大空襲〕
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 72.
- ^ 「昭和19年7月19日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1539号 p.41」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000
- ^ 「昭和19年7月18日(発令7月10日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1538号 p.37 第六艦隊司令部附海軍大尉黒木博司補第一特別基地隊附」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000
- ^ 「昭和19年7月17日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1537号 p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 34–37突然の悲劇
- ^ a b c d e 海の特攻回天 2011, p. 35.
- ^ a b c d e f 海の特攻回天 2011, p. 36.
- ^ a b c d e 海の特攻回天 2011, p. 37.
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 45.
- ^ a b c 海の特攻回天 2011, p. 38b.
- ^ a b c d 海の特攻回天 2011, p. 39.
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 40.
- ^ 海の特攻回天 2011, pp. 38a-45壮絶な最期
- ^ 海の特攻回天 2011, p. 41.
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