殉職~没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 23:09 UTC 版)
黒木・仁科両者が苦心の末に兵器としての採用を認めさせた「回天」を使用し、1944年(昭和19年)9月5日より本格的な訓練が開始された。翌9月6日朝は爽やかな秋晴れだったが、午前10時頃から白波が立ちはじめた。上別府宣紀大尉(海兵70期)と仁科関夫中尉(海兵71期)が同乗訓練をおこなった時には、波が高くなった。午後になると天候は悪化し、海面がうねり出した。同乗訓練から戻った仁科は、これから訓練を開始しようとしていた黒木に「湾外の波が高いから訓練は中止したほうが良い」と進言した。基地指揮官の板倉光馬少佐も訓練中止を決定した。しかし黒木と樋口孝大尉(海兵70期)は訓練再開を熱望した。黒木は「これくらいの波で(回天が)使えないなら、実戦では役に立たない」と主張し、板倉は折れた。同日17時40分、黒木と樋口は訓練用回天に同乗して防波堤の外に出た。樋口が操縦する「回天」は蛇島へ向けて針路を取るが、成果確認と危険防止のため同航していた内火艇や魚雷艇は訓練用回天を見失った。板倉達は民間漁船にも捜索協力を依頼して捜索を開始したが、悪天候のため救助作業は難航した。9月7日午前9時、捜索隊は海底につきささった訓練用回天を発見し、黒木・樋口両者は遺体となって発見された。享年22。23歳の誕生日を迎える4日前だった。 訓練開始直後の殉職事故だったが訓練部隊の士気は全く衰えず、翌8日朝には訓練再開の声があがった。仁科は黒木の遺志を受け継ぎ、自身の出撃(1944年11月8日、玄作戦・菊水隊)直前まで「回天」の試作段階で浮き彫りになった様々な問題を中心に改良・研究に熱心に取り組んでいた。1964年(昭和39年)、黒木の出身地である岐阜県下呂市の信貴山山頂に楠公社が創建され、黒木など「回天」で出撃して殉職した138柱が合祀されている。黒木の墓は、岐阜県下呂市の温泉寺にある。
※この「殉職~没後」の解説は、「黒木博司」の解説の一部です。
「殉職~没後」を含む「黒木博司」の記事については、「黒木博司」の概要を参照ください。
- 殉職~没後のページへのリンク