日本映画の初興行とは? わかりやすく解説

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日本映画の初興行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/17 01:20 UTC 版)

駒田好洋」の記事における「日本映画の初興行」の解説

1899年明治32年)、22歳駒田小西写真機店からムービーカメラ購入同い年浅野撮影発注小西写真機店によって、芝区料亭紅葉館」で3人の芸者踊り撮影された。この『芸者の手踊り』が「日本初商業公開用の映画」とされ、同年6月20日歌舞伎座公開された。 翌月7月14日には『かっぽれ』ほかが明治座公開された。またこのとき、銀座三越写真部柴田常吉作品も同会によって公開されている。 同年清水定吉による「日本初拳銃強盗事件」をテーマに、俳優横山運平らに演じさせた映画清水定吉稲妻強盗)』(『ピストル強盗清水定吉』とも)を製作する。これが「日本初劇映画」となり、犯人清水取り押さえ24歳殉職した警官演じた横山は「日本初映画俳優となった。 やがて東京吉沢商店京都横田商会らが割拠し始め、「日本率先活動大写真会」は1905年明治38年以降活動沈潜化する駒田はまだ28歳である。 駒田は「東京活動写真会」名義歌舞伎相撲撮影フィルム持って全国巡業して廻り同年日露戦争記録映画大当たりをとる。 のちに駒田は、下谷区上野現在の台東区上野)で「セカイ・フィルム」社を設立、「日本率先活動大写真会時代所蔵プリント貸し出していた。同社は1本だけ映画製作したが、それが帝国劇場公開されたのは駒田没後1937年のことだった。駒田が「原作」としてクレジットされている『不滅乃木』がそれで、トーキーの時代に「サウンド版」で、活弁吹き込んでいるのは、岩藤思雪であった1935年昭和10年8月11日死去58歳没。多磨霊園に眠る。

※この「日本映画の初興行」の解説は、「駒田好洋」の解説の一部です。
「日本映画の初興行」を含む「駒田好洋」の記事については、「駒田好洋」の概要を参照ください。

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