日本映画の初興行
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1899年(明治32年)、22歳の駒田は小西写真機店からムービーカメラを購入、同い年の浅野に撮影発注。小西写真機店によって、芝区の料亭「紅葉館」で3人の芸者の踊りが撮影された。この『芸者の手踊り』が「日本初の商業公開用の映画」とされ、同年6月20日、歌舞伎座で公開された。 翌月7月14日には『かっぽれ』ほかが明治座で公開された。またこのとき、銀座の三越写真部の柴田常吉の作品も同会によって公開されている。 同年、清水定吉による「日本初の拳銃強盗事件」をテーマに、俳優横山運平らに演じさせた映画『清水定吉(稲妻強盗)』(『ピストル強盗清水定吉』とも)を製作する。これが「日本初の劇映画」となり、犯人清水を取り押さえ24歳で殉職した警官を演じた横山は「日本初の映画俳優」となった。 やがて東京の吉沢商店や京都の横田商会らが割拠し始め、「日本率先活動大写真会」は1905年(明治38年)以降に活動は沈潜化する。駒田はまだ28歳である。 駒田は「東京活動写真会」名義で歌舞伎や相撲の撮影フィルムを持って全国を巡業して廻り、同年、日露戦争の記録映画で大当たりをとる。 のちに駒田は、下谷区上野(現在の台東区上野)で「セカイ・フィルム」社を設立、「日本率先活動大写真会」時代の所蔵プリントを貸し出していた。同社は1本だけ映画を製作したが、それが帝国劇場で公開されたのは駒田の没後、1937年のことだった。駒田が「原作」としてクレジットされている『不滅乃木』がそれで、トーキーの時代に「サウンド版」で、活弁を吹き込んでいるのは、岩藤思雪であった。 1935年(昭和10年)8月11日に死去。58歳没。多磨霊園に眠る。
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