日本映画への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/01 03:18 UTC 版)
「ブルーバード映画」の記事における「日本映画への影響」の解説
のちの映画監督・衣笠貞之助は、まだ日活向島撮影所で女形の俳優であった時代に夢中になり、欠かさず観た監督としてルパート・ジュリアンの名を挙げ、同監督作のカットのつながりまで記憶し、静かに語るストーリー展開に魅了されたという。1920年(大正9年)に衣笠が初めて執筆した脚本『妹の死』は、本人によれば、ブルーバード映画の影響が色濃く出た脚本であったといい、同作は阪田重則(衣笠の回想によれば若山治)の名義で衣笠が初めて監督し、主演の妹役も自ら演じたという。 映画史家・田中純一郎の指摘によれば、「ブルーバード映画」の撤退後に現れた帰山教正の映画芸術協会や松竹蒲田撮影所の諸作品に影響が見出せるという。1917年(大正6年)製作、シオドア・マーストン監督の『深山の乙女』と同タイトルの映画を映画芸術協会は1919年(大正8年)に発表しており、ドナルド・リチーは、同日公開の『生の輝き』においても、イワン・ツルゲーネフの女主人公やチャールズ・チャップリンに登場する少年といった人物造形と並んで、「ブルーバード映画」の研究の痕跡を指摘している。 1921年(大正10年)、松竹キネマ研究所は小山内薫の指導のもと、ヴィルヘルム・シュミットボンの『街の子』(森鴎外訳)とマクシム・ゴーリキーの『夜の宿』(小山内訳、『どん底』)を原作に、牛原虚彦が脚色、村田実が監督した『路上の霊魂』を制作した。家に仕える娘と労働者の青年のロマンスという『路上の霊魂』のストーリー設定は、ドナルド・リチーの指摘によれば、「ブルーバード映画」の影響が大いにあるという。牛原は『南方の判事』の生駒雷遊の声帯模写を得意とするほど、大学時代に多くのイタリア映画やアメリカ映画と同様に「ブルーバード映画」に耽溺したという。松竹蒲田撮影所が1922年(大正11年)に製作した野村芳亭監督の『海の呼声』、牛原虚彦監督の『傷める小鳥』は、ロイス・ウェバー監督の『毒流』(1916年)を原作にいずれも伊藤大輔が脚本を書き、「ブルーバード映画『毒流』より」と原作クレジットされている。伊藤が最初に洋画に興味をもったのは、18歳のころに観たブルーバード映画がきっかけだという。 アーサー・ノレッティ・ジュニアの指摘によれば、小津安二郎の『会社員生活』(1929年)等の庶民劇には、10代のころに小津が観たチャールズ・チャップリンとならんで、ブルーバード映画からの影響があるという。小津の旧制中学校時代の日記には、メアリー・マクラレン、メイ・マレイ、プリシラ・ディーン、ルース・クリフォード、ドロシー・フィリップスらブルーバード映画のスター女優たちへのファンレター宛先が綴られている。旧制中学校の後輩であった梅川文男によれば、小津は、自宅のあった飯南郡松坂町愛宕町(現在の松阪市愛宕町)にあった神楽座のほか、名古屋や大阪までもアメリカ映画の新作を観に出かけていたという。 のちに東宝の副社長となった森岩雄は、大正時代の東京の知識人階級の若者たちにとって、銀座のカフェーパウリスタでカレーライスとコーヒーを摂り、近くの金春館(現在の旧電通本社ビル)で最新作の「ブルーバード映画」を観ることが、「文化的生活を生きること」と同義であったと回顧している。当時旧制中学校に通っていた山本嘉次郎は、のちの脚本家の小林正とともに、カフェーパウリスタと金春館に通いつめ、スピーディなアメリカ映画に詩情を添えた「ブルーバード映画」に酔い、なかでもルパート・ジュリアン、J・ウォーレン・ケリガン、ハリー・ケリーの名を挙げ、演劇で鍛えた芝居を賞讃している。当時の金春館の弁士は小川紫明で、大辻司郎と比較するに後者を「野暮ったい」早稲田・明治の学生向きとし、前者を「粋な洒落っ気」ある自らを含めた慶應の学生や虎ノ門の女子学生、新橋の粋な芸者向けであるとしている。当時明治の学生でもあった大辻については、山本の映画づくりの仲間でもあったゆえのこき下ろしであり、森岩雄は当時の山本たちの製作した映画を配給した中央映画社を経営していた。
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