魚雷肉攻案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 00:50 UTC 版)
詳細は「回天#開発経緯」を参照 竹間は軍令部で潜水艦を担当していた井浦祥二郎参謀に手紙で意見具申を行った。その内容は「新兵器をもってする肉弾攻撃」の必要を説いた人間魚雷構想であった。井浦はこの手紙を受け取った時期を「昭和18年に入ってから」と記憶している。井浦は艦政本部に相談したが、担当者の返事は「ちょっと、むずかしい」というものであった。 魚雷肉攻案は、近江誠(海兵70期)も上司に相談のうえ連合艦隊司令部に血書をもって提案した。時期は1943年(昭和18年)末、もしくは1944年(昭和19年)初頃である。黒木博司が連合艦隊司令長官山本五十六に特攻兵器の必要性を訴えたのは1943年(昭和18年)3月5日であった。黒木、仁科関夫らの人間魚雷構想は1943年(昭和18年)末に着想され、黒木は1944年(昭和19年)正月にかけて海軍中央に採用を働きかける。海軍中央は同年2月末に試作命令を発し、7月末に完成する。これが人間魚雷ともいわれる「回天」であるが、試作命令を出した軍務局第一課長の山本善雄は脱出装置を考慮するよう指示している。 「回天」主務参謀の鳥巣建之助は、1944年(昭和19年)1月20日頃には軍令部第二部長(戦備担当)の黒島亀人が試作を指示していると指摘している。なお、軍令部第一部長(作戦担当)の中澤佑の日誌には、神風特別攻撃隊の最初の攻撃が行われた1944年(昭和19年)10月に先立つ、1943年(昭和18年)8月に「戦闘機による衝突撃」などの特攻作戦と関連する言葉が綴られている。
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