竹間忠三
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竹間 忠三(ちくま ちゅうぞう[1]、生年不明 - 1945年〈昭和20年〉2月1日[1][2][* 1])は、日本の海軍軍人。1943年(昭和18年)初め頃に魚雷を用いた肉弾攻撃構想を上申した[1][3][4]。「呂115」潜水艦長として戦死。最終階級は海軍少佐。
- ^ 日本側の認定日は2月21日。『艦長たちの軍艦史』では1月22日戦死となっている。
- ^ 62期の皇族出身生徒も例外ではない。海兵における鉄拳行使は明治時代から行われていた。歴代の海兵校長中、鈴木貫太郎は禁止しているが、井上成美は留保付きながら容認した(井上成美伝記刊行会編『井上成美』377‐378頁)。65期が鍛えた生徒の中には一年で2800発殴られた者もいる(『江田島教育』182頁)。
- ^ 日本側文献では7月12日、7月18日、7月8日と日付が分かれている。
- ^ a b c d e f 『人間魚雷』55頁
- ^ a b 『日本潜水艦戦史』254頁
- ^ a b c 『潜水艦隊』306頁
- ^ a b 『日本潜水艦戦史』209頁
- ^ 豊田穣『江田島教育』集英社文庫、1993年。ISBN 4-08-750697-5。138-139頁
- ^ 『海軍兵学校沿革』原書房
- ^ 豊田穣『同期の桜』光人社、1981年。ISBN 4-7698-0167-X。5頁
- ^ 福井静夫作成『「あ号作戦」当時主要潜水艦要目』
- ^ 『艦長たちの軍艦史』457-458頁
- ^ 『潜水艦隊』210頁
- ^ “Dictionary of American Naval Fighting ships”. Navy Department , Naval History & Heritage Commad. 2013年9月13日閲覧。
- ^ 『日本潜水艦戦史』148頁
- ^ a b c 『日本潜水艦戦史』207-208頁
- ^ 『日本潜水艦戦史』185頁
- ^ 『艦長たちの軍艦史』461頁
- ^ 『潜水艦隊』330頁
- ^ a b 『「回天」その青春群像』114-117頁
- ^ 『日本の海軍(下)』197-198頁
- ^ 『人間魚雷』66-67頁
- ^ 『日本海軍400時間の証言』171頁
- ^ 『日本海軍400時間の証言』254頁
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