呂115潜水艦長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 00:50 UTC 版)
1944年(昭和19年)2月から潜水艦長養成課程である潜水学校甲種学生過程に学び、練習潜水艦「呂63」潜水艦長として経験を積んだ。8月に「呂106」の同型艦である「呂115」の潜水艦長に補される。ペナンに進出しインド洋で交通破壊戦を行っていた第八潜水戦隊に加わり、「呂113」とともにベンガル湾で交通破壊戦に従った。この二艦は南西方面で交通破壊戦に従事した最後の潜水艦である。 10月にはフィリピンの戦いが始まったが、日本海軍はレイテ沖海戦に敗れ、第一四方面軍(山下奉文軍司令官)などフィリピン防衛にあたる日本軍部隊は孤立した。あ号作戦において日本海軍は潜水艦20隻を喪失しており、防御的性格の「呂115」も先遣部隊に編入され、第三十四潜水隊に所属替となった。フィリピン方面に出撃した時期は1945年(昭和20年)1月19日または1944年(昭和19年)12月25日であり、ルソン島からの航空機搭乗員を救出を図ったが、消息を絶つ。戦後に判明した米側資料によれば、「呂115」はミンドロ島北西で、ミンドロ島とルソン島の間を通過する日本の輸送船がいないか哨戒していた米駆逐艦四隻(一隻は護衛駆逐艦)によって撃沈されている。原因はレーダー探知であり、「呂115」乗員は、竹間以下総員59名が戦死した。
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