あ号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/06/05 12:16 UTC 版)
あ号作戦およびア号作戦は、太平洋戦争において日本軍が立案した作戦である。
- 1941年のあ号作戦は、太平洋戦争開戦時に陸軍と海軍により立案された東南アジアへの侵攻作戦。:南方作戦を参照。
- 1943年のア号作戦は、陸軍と海軍により立案された北太平洋方面(アリューシャン列島および千島列島)における防衛作戦。:アリューシャン方面の戦いを参照。
- 1944年のア号作戦は、陸軍により立案されたマリアナ諸島方面における防衛作戦。:マリアナ・パラオ諸島の戦いを参照。
- 1944年のあ号作戦は、海軍により立案されたマリアナ諸島方面におけるアメリカ艦隊迎撃作戦。:マリアナ沖海戦を参照。
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あ号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 16:30 UTC 版)
1944年1月31日付で寺本(少佐)は「伊175」潜水艦長に補されるが、「伊175」は寺本が着任する前にトラックから出撃してしまったため、半月後の2月15日に「伊36」潜水艦長に補された。「伊36」の前任艦長は稲葉通宗中佐で、1月に佐世保に帰還して整備を受け、また電探の装着も実施されている。稲葉は寺本の潜水学校時代の教官であり、その人物に期待をかけていた。寺本の着任は2月17日であったが、この日はトラック島空襲によって連合艦隊根拠地のトラックが壊滅した日でもあった。翌月には米軍の後方遮断作戦に従い、西経179度から177度付近で配置に就いた。4月15日には敵空母を発見したが襲撃には至らず、翌日大型空母に魚雷2発の命中を報じ、22日にはメジェロ環礁の飛行偵察に成功した。ただし、米側に空母雷撃に関する該当記録はない。爆撃による損傷を受けつつも5月9日、日本に帰還した。「伊36」は竜巻作戦で特四式内火艇の搭載潜水艦に予定されたが、特四は設計者の堀元美がその使用目的を聞かされ即座に作戦中止を考慮した程、その必要とした能力に欠け、作戦は中止となっている。日本海軍が決戦として発動した「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)においては第一潜水部隊第三十四潜水隊に所属し、6月19日に呉を出撃しトラックへの燃料、弾薬の輸送を行った。30日にトラックへ到着し、搭乗員86名を便乗させ、翌月16日に呉に帰還している。寺本を待っていたのは玄作戦、すなわち特攻兵器回天による特攻作戦であった。
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あ号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 09:35 UTC 版)
1944年(昭和19年)5月、第32駆逐隊は前進根拠地のタウイタウイ方面に進出、航空母艦の訓練に協力しつつ対潜警戒に従事する。だがアメリカ軍潜水艦の活動により、日本側駆逐艦は次々に撃沈された。6月7日昼頃、早波(第32駆逐隊、司令駆逐艦)がアメリカの潜水艦ハーダー(USS Harder, SS-257)の雷撃で沈没する。第32駆逐隊は2隻編制(藤波、浜波)となった。また早波沈没時に、早波艦長清水逸郎中佐と折田大佐(第32駆逐隊司令)が戦死した(折田は海軍少将に進級)。第32駆逐隊は、一時駆逐隊司令不在となる。そこで玉波艦長青木久治中佐(海兵50期)が6月15日附で第32駆逐隊司令に転任、早波艦長として着任予定だった千本木十三四中佐(海兵52期)が玉波艦長となった。 6月19日のマリアナ沖海戦では、丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊主力)に所属してアメリカ群と交戦した(海戦の経過と編成については、当該記事を参照)。同日の前衛部隊は空母3隻(千歳、千代田、瑞鳳)を分散させて輪形陣を形成しており、本艦は第11群(空母瑞鳳、戦艦〈大和、武蔵〉、重巡〈熊野、利根、鈴谷〉、第32駆逐隊〈玉波、浜波、藤波〉)という区分だったという。前衛部隊では、6月20日の戦闘で千代田、榛名、摩耶に爆弾命中や至近弾による損害があった。マリアナ沖海戦は日本海軍の大敗で終わる。日本艦隊は6月22日に中城湾に入港した。順次出発し、6月24日柱島泊地に帰投した。 一方、第32駆逐隊の玉波と藤波は内地に戻らず、軽巡洋艦北上(第十六戦隊)とタンカー旭東丸を護衛して内地へ向かう。7月7日未明、マニラ湾沖合でアメリカの潜水艦ミンゴ (USS Mingo, SS-261)の雷撃で玉波が沈没した。青木中佐(第32駆逐隊司令)と千本木(玉波艦長)は戦死した。玉波喪失により、第32駆逐隊は夕雲型2隻(藤波、浜波)に減少した。 7月9日、遊撃部隊主隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)は臼杵湾を出撃する。輸送物件の関係から、甲部隊(第一戦隊、第四戦隊、第七戦隊、第二水雷戦隊〔第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波、朝霜、長波〉、夕雲型〈浜波〉、島風型〈島風〉〕)、乙部隊という編成だった。7月10日午後、遊撃部隊主隊は中城湾に到着した。沖縄の第三十二軍(司令官渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行う。同日夕刻、甲部隊は沖縄を出発、リンガ泊地に直接向かった(乙部隊は12日出発)。暴風雨に遭遇して五月雨が一時行方不明になったが、ほかに特に異状なく7月16日シンガポール(一部はリンガ泊地直行)に到着した。ほどなく乙部隊もリンガ泊地に進出し、第一遊撃部隊は訓練に励んだ。 8月25日、ガルワングル環礁で座礁していた白露型駆逐艦五月雨は、アメリカの潜水艦バットフィッシュの雷撃で船体断裂、放棄された。第27駆逐隊は白露型駆逐艦「時雨」1隻のみとなった。そこで、第27駆逐隊司令大島一太郎大佐(海兵50期)が第32駆逐隊司令に任命される。9月1日、ヒ71船団を護衛していた藤波はシンガポールに到着、浜波と合流する。当時の第32駆逐隊は前述のように消耗を続け、浜波と藤波だけになっていた。
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