兵装の変遷
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「島風 (島風型駆逐艦)」の記事における「兵装の変遷」の解説
島風は竣工時より22号(対水上用) 電探を前マストに装備し、後に13号電探を後部マストに装備した。機銃は竣工時に艦橋前に装備した13mm連装機銃を25mm連装に変更、25mm連装機銃は同3連装に交換した。また2番、3番魚雷発射管の間に機銃台を設け、25mm3連装機銃2基を装備、合計25mm3連装4基、同連装1基となった。単装機銃は1944年6月30日調べの「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」では25mm単装7挺、同据付座7基、13mm単装1挺とされている。その他に爆雷投下軌道(軌条)2組も装備された。
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兵装の変遷
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1937年(昭和12年)7月の日華事変以降に各艦は大陸方面へ進出したが、この時は艦橋天蓋に7.7mm機銃を搭載したほか、艦橋や機銃台に防弾板を設置したと言われる。 太平洋戦争開戦時の兵装は、田村俊夫の調査によると各艦開戦直前に九三式魚雷を搭載できるよう発射管を改造、魚雷12本を搭載した。 1942年(昭和17年)7月に沈没した子日は開戦時と同じ兵装と思われる。1943年(昭和18年)7月に沈没した有明・夕暮は40mm機銃を25mm連装機銃に換装、艦橋前に25mm連装機銃1基を増備の状況だった。残る3艦は1943年10月までに2番砲(単装砲)を撤去して25mm3連装機銃を1基増備、中部機銃台の(40mmから換装した)25mm連装機銃は同3連装機銃に換装、機銃の合計は25mm3連装3基、同連装2基の計11挺とされた。 「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年(昭和19年)8月から9月の時点で22号電探を前部マストに、13号電探を後部マストに装備、その他各艦単装機銃を甲板上各所に14挺から16挺ほど装備している。
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兵装の変遷
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航空機は1927年(昭和2年)度に一度搭載し、1930年(昭和5年)度より常時、一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい。 8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換されたとされる。ただし長鯨乗組員によればラバウル進出時も8㎝高角砲を装備しており、対空戦闘で幾度も発砲したという。大戦中の機銃増備は明らかでないが、艦橋前に25mm機銃連装1基、艦橋両舷に13mm連装機銃各1基を装備した。艦橋左舷側の13mm連装機銃は公室の真上にあり、発砲すると騒音で部屋にいられなくなった。そこで第七潜水戦隊司令部の意向により銃身は取り外され、銃架は幌で覆われて固縛されていた。その他、1944年(昭和19年)4月中旬と、1945年(昭和20年)1月下旬に対空兵装を増強、25mm単装機銃10挺を増備していたとされる。また1944年(昭和19年)5月中旬より呉海軍工廠で21号電探を前部マストのトップに装備した。さらに電波探知機も装備していた。潜水部隊の練習艦であるため、日本海軍の標準的な対潜兵器を一通り装備していた。
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兵装の変遷
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航空機は1930年(昭和5年)度より一四式水上偵察機を1機搭載した。射出機は搭載されず、デリックで水上に降ろして運用していた。1940年(昭和15年)ころには九四式水上偵察機を搭載していたらしい。太平洋戦争中の練習艦時代には、水上偵察機関連の装備を全て撤去していたとされる。 8cm高角砲2基は1940年(昭和15年)ころ25mm機銃連装2基と交換された。ただし。迅鯨乗組員は1944年(昭和19年)でも艦中央部両舷に8㎝高角砲が装備されていたと回想し、実際に発射訓練をおこなったという。大戦中の機銃増備は明らかでないが、艦橋前に25mm機銃連装1基、艦橋両舷に13mm連装機銃を装備した。その他、同単装機銃10挺を増備していたとされる。25mm単装機銃を装備していなかったという乗組員の証言もある。1944年(昭和19年)5月下旬には、呉海軍工廠で21号電探を前部マストのトップに装備した。また新造潜水艦に爆雷攻撃を体験させるため、艦尾付近に訓練用の爆雷投下台を備えていた。訓練用の九三式水中聴音機も装備している。
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