戦歴・兵装の変遷
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初めは全隻大西洋艦隊に配備された。真珠湾攻撃後はウェインライト、バック、ロウが大西洋戦線に留まり、残りは太平洋戦線に転じた。バックはサレルノ沖でUボートの攻撃により沈没し、ウェインライトとロウは地中海の戦いが幕を閉じると、本国に帰投して整備の上で太平洋戦線に移動した。太平洋戦線で戦った艦は、初期から日本海軍と激闘を演じた。珊瑚海海戦でシムスが沈没すると、続くミッドウェー海戦ではハムマンが、損傷した空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) に横付け中、伊168の雷撃で沈没した。9月15日にはオブライエンが、伊19が空母ワスプ (USS Wasp, CV-7) を狙って命中しなかった酸素魚雷の命中を受け、応急修理後に本国に帰投中、船体が折れて沈没した。ウォークも第三次ソロモン海戦で沈没した。残存艦はマーシャル諸島、ニューギニア、フィリピン、硫黄島、沖縄と転戦して大戦を生き残ったが、1946年までに全艦が退役した。残存艦の内3隻はオーバーホール途中に退役が決定しスクラップとされた。4隻はビキニ環礁での原爆実験であるクロスロード作戦に使用され1隻が最初の爆発で沈没、3隻は2年後に標的艦として撃沈された。 太平洋配備艦、大西洋配備艦ともども大戦中に40ミリ機関砲と20ミリ機銃を装備して対空火器を充実させた。神風特別攻撃隊が出現した後、魚雷発射管を全て降ろして対空火器のさらなる充実が図られることとなり、マスティン、ラッセル、モリスの3隻が当該改修を実施した。
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戦歴・兵装の変遷
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「クレムソン級駆逐艦」の記事における「戦歴・兵装の変遷」の解説
戦間期には、1923年9月8日のホンダポイント遭難事件で7隻を、衝突事故で2隻を失った。また、ヤーロウ社製の主缶を搭載していた57隻が、ヤーロウ缶の状態悪化により早期に除籍解体された。ロンドン海軍軍縮条約による解体を免れた内、19隻が第二次世界大戦期にレンドリース法によりイギリス海軍に貸与された(タウン級駆逐艦)。他の艦は近代化改装されるか、水上機母艦や軽敷設艦、掃海駆逐艦および高速輸送艦(マンリー級)として使用された。除籍艦の中には、アメリカ沿岸警備隊で使用された艦や民間に払い下げられて果物の運搬船になった艦もある。 大西洋配備艦は中立パトロールを経てUボートとの戦いに明け暮れ、このうちボリーは、1943年11月1日にU-405と相撃ちになって翌日沈没した。アジア艦隊(英語版)配備艦は南方作戦に協力する日本海軍と対決。1942年1月24日のバリクパパン沖海戦では日本側の隙を突いて上陸船団泊地を奇襲して戦果を挙げた。しかし、圧倒的な日本海軍の戦力の前に、損傷して早期に脱出した艦を除いて次々と失われていった。スチュワートはバリ島沖海戦で損傷後にスラバヤで自沈処分に付されたが処置が十分でなく、後に日本海軍によって復旧され日本海軍所属の第102号哨戒艇として就役した。戦後に米軍によって再発見・再接収され、アメリカ本土に戻った後に標的艦として処分された。他艦種に転籍した艦の中には、護衛艦不足のため駆逐艦籍に戻った艦もいる。第二次世界大戦による損耗を経て、残存した艦は1946年までに全て除籍された。 駆逐艦籍に留まった艦、および駆逐艦籍に復籍した艦は主砲を両用砲に換装し、魚雷発射管を一部撤去して対空兵装と対潜兵装を充実させた。また、缶を1基撤去して三本煙突になった艦もある。
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戦歴・兵装の変遷
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全隻が太平洋戦争で日本海軍と戦った。また、アメリカ海軍が優位に立っていない緒戦から日本軍と死闘を演じたため被害も多い。1941年12月8日、真珠湾に在泊していて日本海軍の真珠湾攻撃によりショー、カッシン、ダウンズの3隻が損傷した。そのうちカッシンとダウンズは爆撃を受けて沈没し、浮揚の後に修理された上で戦列に復帰した。1942年8月4日には、タッカーが味方が敷設した機雷に触雷し、エスピリトゥサント島(現バヌアツ)近海で沈没した。同年、11月13日には第三次ソロモン海戦(米軍呼称・ガダルカナル海戦)で日本海軍との夜戦によりカッシング、プレストンが撃沈された。1943年11月、パーキンスがオーストラリア兵員輸送艦ダントルーンと衝突し沈没。下って1944年12月にはフィリピン・オルモック湾にて日本軍機(陸軍機説が有力)の突入を受け、マハンが12月7日に、リードが12月11日に撃沈された。戦闘で4隻(タッカーを含めれば5隻)、事故で2隻が沈没し、16隻中6隻を失った。戦後はカニンガムとラムソンが原爆実験クロスロード作戦に使用された他は1946年に退役し、1947年に処分された。 兵装の変遷については、まず1942年からレーダーの装備による三番砲および一部搭載品の陸揚げとエリコン20mm機関砲の装備が実施された。三番砲跡地には20mm機関砲2基、次いでボフォース 40mm連装機関砲2基が装備された。40mm機関砲の重量は半端ではなかったが、1944年10月から出現した神風特別攻撃隊対策として更なる装備が行われ、代わりに全ての魚雷発射管や四番砲の撤去が実施された艦も出現した。真珠湾攻撃で大破したカッシンとダウンズは、機関部や艤装品をそのまま使用して船体を改めて建造され再就役したが、5インチ単装砲は4基、4連装魚雷発射管は2基装備となった。
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戦歴・兵装の変遷
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「バッグレイ級駆逐艦」の記事における「戦歴・兵装の変遷」の解説
本級8隻は1941年12月7日の真珠湾攻撃に遭遇し、第二次世界大戦では終始太平洋戦線で活躍した。1942年から1943年にかけてのソロモン諸島の戦いでは主力の一部を成し、ブルー、ヘンリー、ジャーヴィスの3隻がソロモン諸島での戦闘で失われた。バッグレイは戦争終結後の在南鳥島日本軍部隊の降伏式に立ち会った。マグフォードとラルフ・タルボットの2隻は特攻機の命中を受け、戦後はクロスロード作戦に供用された後、クェゼリン環礁で海没処分となった。残りの3隻はスクラップとして売却された。 兵装のうち、対空火器は1942年中に20ミリ機銃への換装を終えている。グリッドレイ級では重量と復原性の関係で搭載できなかった40ミリ機関砲も連装タイプ1基を搭載する事ができた。魚雷発射管もグリッドレイ級とは異なって最後まで4基装備していた。
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戦歴・兵装の変遷
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「サマーズ級駆逐艦」の記事における「戦歴・兵装の変遷」の解説
第二次世界大戦の勃発後は主に大西洋方面で哨戒任務にあたり、太平洋戦争が始まった後も護衛、哨戒任務に従事した。嚮導艦として建造された当級であったが、日本海軍同様に嚮導艦の役目は軽巡洋艦が受けもち、駆逐艦の大型化が進んだため嚮導艦として運用されず、アメリカ海軍が建造した最後の嚮導駆逐艦となった。ウォリントンとサンプソンの2隻は太平洋戦線のニューギニア方面で支援任務に参加したが、このうちのウォリントンは1944年、訓練中に暴風雨に遭遇し、トップヘビーが災いしてバハマ沖で沈没した。その他の艦は大きな海戦に参加することなかったが、ドイツのUボートや封鎖突破船狩りでいくつか戦果を挙げ、ノルマンディー上陸作戦やドラグーン作戦などにも参加した。ウォリントンを除く残存艦は1945年に退役し、1946年から1947年にかけて売却され解体された。 大戦勃発前からのトップヘビー改善の改修に続いて、大戦中は三番砲が撤去されて40ミリ連装機関砲と20ミリ機銃が装備された。デイヴィスとジョーエットは1945年に入ってポーター級改修艦と同様に5インチ砲を連装2基と単装1基に改め、艦橋は低くされた。魚雷発射管はすべて陸揚げされて、代わりに40ミリ機関砲を充実させた。
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戦歴・兵装の変遷
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「グリッドレイ級駆逐艦」の記事における「戦歴・兵装の変遷」の解説
全隻が太平洋戦争勃発直後から機動部隊の護衛にあたり、1942年6月のミッドウェー海戦後はソロモン諸島の戦いに転戦した。1943年8月6日のベラ湾夜戦にはクレイヴンとモーリーが参加し、日本海軍駆逐艦萩風、嵐、江風の3隻を雷撃で撃沈。グリッドレイ級の戦歴のハイライトとなった。その後も、ギルバート諸島、マーシャル諸島、マリアナ諸島およびフィリピン近海で引き続き機動部隊や火力支援部隊に随伴し続けた。しかし、次に述べる事情から漸次太平洋戦線から離れる事となった。 前述したように、バッグレイ級とほぼ同じ船体を持ちながら復原性に問題があった。これは対空火器の増強の上で大きなネックとなった。1943年中旬までに既存の12.7ミリ機銃の換装と増強によって20ミリ機銃を合計8基装備したが、グリッドレイ級における対空火器の増強は、これが精一杯だった。40ミリ機関砲は重量の関係で搭載せず、ファラガット級駆逐艦以降のアメリカ海軍駆逐艦の中で40ミリ機関砲を唯一搭載しなかったクラスとなった。1944年10月に神風特別攻撃隊が出現して以降、20ミリ機銃だけしか持たないグリッドレイ級は対空火器が貧弱と判断され、全隻が真珠湾や本国への回航のついでに大西洋方面に回航された。この際、魚雷発射管のうち後部の2基が撤去された。終戦後は1947年までに全隻が売却され処分された。 なお、一本煙突のアメリカ海軍駆逐艦というのはそれなりのインパクトがあったのか、1944年10月25日のレイテ沖海戦で栗田健男中将の日本艦隊が第77.4.3任務群(通称「タフィ3」。クリフトン・スプレイグ少将)を攻撃した際、日本側は反撃に出てきた護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) を「クラベン型駆逐艦」(グリッドレイ級)として識別している。
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戦歴・兵装の変遷
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「ポーター級駆逐艦」の記事における「戦歴・兵装の変遷」の解説
上記のように、4基の連装台座に計8門の5インチ砲を装備していたが、重量が前方に偏ることが判明した。また、1939年からのヨーロッパ戦線での戦訓を鑑みて平射砲の両用砲への換装が検討された。しかし、換装するにしてもその他の重量物を陸揚げしないとバランスが取れなかった事から、まず後部甲板室と後檣が撤去されて前檣も大幅に簡素化された。対空機銃として20ミリ機銃が追加され、レーダーも装備された。1942年10月26日の南太平洋海戦で戦没したポーターは、恐らくこの艦容で失われた。 1943年に入ると装備の変遷は顕著となり、20ミリ機銃は40ミリ機関砲に換装され、二番砲あるいは三番砲が代償として撤去された。1944年遅くに入って、ようやく両用砲への換装が実現することとなった。セルフリッジを例にすると、両用砲は連装砲が一番砲と三番砲(旧・四番砲)の位置に、単装砲が二番砲(旧・三番砲)の位置に装備され、これに伴って40ミリ機関砲の位置も艦橋前の旧・二番砲の位置に移設された。神風特別攻撃隊が出現すると、その対策として対空兵装の更なる充実が図られ、フェルプスとウィンスローは魚雷発射管を撤去して40ミリ機関砲の増強が行われた。レーダーや射撃装置も年毎に更新され、有能な対空射撃システムを確立した。 アメリカの第二次世界大戦参戦時、モフェット、マグダガル、ウィンスローの3隻が大西洋方面に、残りが太平洋方面に配備されていた。ドーリットル空襲、ミッドウェー海戦、ソロモン諸島の戦い、サイパンの戦いなどに参加し、ポーター以外の戦没艦はなかったが、セルフリッジは1943年10月6日の第二次ベララベラ海戦で酸素魚雷の命中により艦首をもぎ取られる損害を蒙った。戦争終結後は多くは早期に除籍されて姿を消したが、ウィンスローは特務艦に転じて1959年に売却された。
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戦歴・兵装の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 02:37 UTC 版)
「ベンハム級駆逐艦」の記事における「戦歴・兵装の変遷」の解説
第二次世界大戦参戦前から中立パトロールに活躍。大戦参戦時、ベンハムとエレットが太平洋艦隊に、残りが大西洋艦隊にそれぞれ配属されていた。大西洋艦隊に属した艦はアイスランド侵攻、ペデスタル作戦、トーチ作戦、ハスキー作戦などに参加し、ローワンを失った。また、ラングとスタレット、スタック、ウィルソンは空母ワスプ (USS Wasp, CV-7) の護衛役として太平洋戦線に転じた。ベンハムとエレットはドーリットル空襲やミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いに参戦。第三次ソロモン海戦でベンハムが沈没した。1943年8月6日のベラ湾夜戦にはラングとスタレット、スタックがグリットレイ級のクレイヴン、モーリーとともに日本海軍駆逐艦萩風、嵐、江風の3隻を雷撃で撃沈した。その後はマーシャル諸島、マリアナ、フィリピン、硫黄島および沖縄と転戦した。戦後はエレット、ラング、スタレットの3隻が1947年にスクラップにされ、残りは太平洋での原爆実験に供用された後に海没処分となった。 対空火器の増強やそれに伴う重量軽減策は漸次施工された。ラングとスタレットは1945年に魚雷発射管を全て陸揚げして、代わりに対空火器および対潜兵装の大幅な増強を実施した。
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