ヨークタウン【Yorktown】
【ヨークタウン】(よーくたうん)
Yorktown
アメリカ合衆国に多数存在する地名。
特にヴァージニア州の、アメリカ独立戦争の勝利を決定付けた「ヨークタウンの戦い」が行なわれた地が知られる。
- CV-5 USS Yorktown
アメリカ海軍が『レンジャー』(CV-4)に引き続き建造した航空母艦。
同型艦に『エンタープライズ』、『ホーネット』がある。
『レンジャー』の排水量に不満があったため、それを拡大・改良する形で設計された。
3隻とも、ニューポートニューズ造船所にて起工された。
なお、2番艦『エンタープライズ』(CV-6)に続いて建造された『ワスプ』(CV-7)は、ワシントン海軍軍縮条約における排水量制限を満たすため、ヨークタウン級を縮小した独自設計となっている。
条約失効後には小改良を加えられた3番艦『ホーネット』(CV-8)が建造された。
太平洋戦争の初期には、これらヨークタウン級とレキシントン級が日本の空母機動艦隊と対峙する形となった。
1番艦『ヨークタウン』はミッドウェー海戦で飛龍の航空隊の反撃により、250kg爆弾3発(日本軍記録6発)と航空魚雷3発(米軍記録2発)が命中し大破した後に日本潜水艦伊一六八の魚雷2発によって撃沈されている。
3番艦『ホーネット』はいわゆる「ドゥーリトル爆撃」に供された後、ミッドウェー海戦などを生き抜いたが、南太平洋海戦で日本機動部隊第1次攻撃隊及び第3次攻撃隊の航空魚雷・250kg爆弾の集中攻撃を受け大破・炎上し、破棄される。就役からわずか1年と7日のことであった。
ヨークタウン級で終戦まで生き延びたのは『エンタープライズ』のみであった。もっとも前述の2艦と同様、戦闘のたびに受ける被害は甚大であった。
スペックデータ 排水量
(基準/満載)19,800t/25,500t 全長 247m 全幅 32.7m 吃水 7.79m 機関 パブコック・ウィルコックス罐・重油焚×9基
ウェスティングハウス式ギアードタービン×4基4軸推進(出力120,000shp(90MW))最大速力 32.5ノット 航続距離 12,500カイリ(15ノット時) 乗員 士官、兵員2,217名 武装 Mk.12 38口径5インチ(127mm)単装砲×8門
75口径1.1インチ(27.9mm)機関砲×4連装4基
ブローニングM2 0.5インチ(12.7mm)機関銃×24門
エリコン20mm機関砲×30基(1942年)搭載機 約80~90機 設備 エレベーター×3基 レーダー CXAM-1
【同型艦】
艦番号 艦名 起工 進水 就役 退役 備考 CV-5 ヨークタウン
(USS Yorktown)1934.5.21 1936.4.4 1937.9.30 1942.10.2 ミッドウェー海戦にて戦没 CV-6 エンタープライズ
(USS Enterprise)1934.7.16 1936.10.3 1938.5.12 1947.2.17 1960.5 解体 CV-8 ホーネット
(USS Hornet)1939.9.25 1940.12.14 1941.10.20 1943.1.13 南大洋海戦にて戦没 - CV-10 USS Yorktown
エセックス級航空母艦の2番艦。
当初は『ボノム・リシャール』の名前が与えられる予定だったが、撃沈されたCV-5から襲名することになった。
初陣は1番艦『エセックス』などとの共同による南鳥島攻撃であった。
太平洋戦争後は予備役だったが、朝鮮戦争勃発によりSCB-27A改装を受ける。しかし休戦には間に合わず、更にSCB-125改装を受けた。
1957年には対潜空母へ艦種変更されてベトナム戦争にも参加、1970年に退役。
現在は博物館船として公開されている。
- CG-48 USS Yorktown
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の2番艦。1984年に就役。
イージスシステム最初期型の「ベースライン0」を搭載した艦は、本艦とネームシップ「タイコンデロガ」の2隻のみである。
1996年より、海軍が主導する「スマートシップ・プログラム」に参加したが、その最中の1997年9月、カリブ海での試験航海中、ガスタービンエンジンを制御するコンピュータに搭載されていたソフトウェアのエラーにより、洋上で機関が停止するという事故を起こしている。
この時、本艦にコンピュータ技術者が不在だったためエラーの修復ができず、2時間半にわたって漂流した挙句、曳航されてノーフォークへ帰港する破目になった。
本艦は2004年12月に除籍となっている。
ヨークタウン
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ヨークタウン(Yorktown、York Town)
- 1 ヨークタウンとは
- 2 ヨークタウンの概要
ヨークタウン
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「コロニアル・ウィリアムズバーグ」の記事における「ヨークタウン」の解説
ヨークタウンにも2つの巨大なビジターズ・センターがあり、その他にも戦場の地となった場所の車道、海岸通りの区域が設けられている。
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ヨークタウン
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1781年6月29日、ヘイズンは准将に昇進し、ヨークタウンの戦いの時はラファイエット指揮下の1個旅団長を任された。
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ヨークタウン
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詳細は「ヨークタウン方面作戦」および「ヨークタウンの戦い」を参照 北部、南部および海上の戦いは1781年のヨークタウンの戦いの1点に収束した。9月早く、フランス海軍はチェサピーク湾の海戦でイギリス艦隊を打ち破り、コーンウォリスの脱出の道を閉ざした。ワシントンはニューヨークから急遽、大陸軍とフランス軍を南部に移動させ、17,000名ほどの大部隊で10月初めにヨークタウンを包囲した。コーンウォリス軍の立場は急速に耐え難いものになり、1781年10月19日に、約7,000名の軍隊全員が降伏した。 ヨークタウンでの降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は休戦の方向に進む議会への支配力を失い、この後は陸上での大きな戦闘が無くなった。しかし、この時点でイギリス軍はニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだ合わせて3万名の戦力を保有していた。西インド諸島における英仏間の争いは続いていた。アメリカの多くの艦船がイギリスの船を襲っていなければ、イギリスはアメリカに更に増援を送ることも可能であった。 ロンドンではヨークタウンの戦い以後に戦争維持派の世論が急速に勢いを無くし、フレデリック・ノース首相は1782年3月に辞任した。そして翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通した。1782年11月には休戦の為の予備協定がパリで結ばれたが、正式の休戦は1783年9月3日のパリ条約締結後であった。アメリカ合衆国議会(当時は連合会議)は1784年1月14日にパリ条約を批准した。最後まで残っていたニューヨークのイギリス軍が撤退したのは1783年11月25日であった。 イギリスは同盟していた先住民族と何の相談も無いままアメリカと休戦の為のパリ条約の交渉を行い、アパラチア山脈からミシシッピー川までの先住民族の土地をアメリカに割譲した。先住民族は不満を抱いたまま、幾つかの条約でアメリカにこれらの土地の割譲を渋々認めたが、これに同意しない種族との紛争が続き、その最大のものは北西インディアン戦争(1785年-1795年)となった。 アメリカ13邦(州)は1787年の憲法制定会議で統一国家としての枠組みを成すアメリカ合衆国憲法を制定し、翌年に発効した。1789年、新憲法の規定に従って初代大統領に選出されたのは、絶望かとも思われた困難な時期に屈することなく大陸軍を率い、圧倒的なイギリス軍との戦争を戦い抜いたワシントンであった。
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ヨークタウン
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「ヨークタウン方面作戦」の記事における「ヨークタウン」の解説
9月6日、クリントン将軍はコーンウォリスに宛てて、援軍を期待するよう告げる手紙を書いた。この手紙をコーンウォリスが受け取ったのが9月14日であり、バナスター・タールトンが比較的弱いラファイエット部隊を破って脱出することを勧めたにも拘わらず、ヨークタウンに留まって脱出の試みを行わないと決断する要因になった可能性があった。ワシントン将軍は自家のあるマウントバーノンで数年ぶりに数日間を過ごした後、9月17日にヨークタウン郊外の宿営地に到着した。これと同じ日に、ニューヨークのイギリス軍指導層は作戦会議を開いた。このときチェサピーク湾の支配を取り戻すまでは、コーンウォリスに援軍を届けられないということでは合意した。歴史家のリチャード・ケッチャムは、この作戦会議の結論でコーンウォリスを「風任せ」にしたと表現している。その1日前、コーンウォリスは「私は貴殿達が直接この場所に来てくれること以外、私に有効なことをできないという意見である」という絶望的な救援依頼を書いていた。コーンウォリスはこの手紙を9月17日に発送する前に、「貴殿達早急に私を救出できなければ、最悪の事態を知らされることに備える必要がある」と付け加えた。 ワシントン、ロシャンボーおよびド・グラスはド・グラスの旗艦ヴィル・ド・パリの上で作戦会議を開き、包囲戦の準備をすることに決した。ド・グラスはそのために訳2,000名の海兵と大砲数門を提供することに同意した。この会合のとき、ド・グラスは10月末まで出発を延期させることにも同意した(当初の計画では10月半ばが予定されていた)。ワシントン達がウィリアムズバーグに戻ると、イギリス海軍の援軍がニューヨークに到着しており、フランス艦隊が脅かされるかもしれないという噂を聞いた。ド・グラスは警戒措置として艦隊を湾の外に出すことを望んだが、ワシントンとロシャンボーからラファイエットを通じて運ばれた嘆願書でそこに留まるよう説得された。 包囲戦は正式には9月28日に始まった。コーンウォリスがグロスター・ポイントから逃げ出そうとした遅すぎた試みの後、包囲の環が縮められ、連合軍の大砲がイギリス軍宿営地に混乱を生じさせた。10月17日、コーンウォリスは交渉を開始し、その後に降伏した。まさにその日、再度イギリス艦隊が6,000名の部隊を乗せてニューヨークを出港していた。このときも合流したフランス艦隊に数で負けており、最終的にはニューヨークに戻った。フランス海軍のある士官はイギリス艦隊が10月29日に出発したことについて「彼らは遅すぎた。鶏は食われてしまった」と記していた。
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