ヨークタウン‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【ヨークタウンの戦い】
ヨークタウンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/14 00:26 UTC 版)
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ヨークタウンの戦い | |
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コーンウォリス卿の降伏 ジョン・トランブル作 | |
戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1781年9月28日 - 10月17日 | |
場所:バージニア州 ヨークタウン | |
結果:フランス・アメリカ連合軍の決定的な勝利 アメリカ独立戦争の大規模戦闘の終結 | |
交戦勢力 | |
フランス王国 アメリカ合衆国(大陸軍) | グレートブリテン王国 |
指導者・指揮官 | |
ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー ジョージ・ワシントン | チャールズ・コーンウォリス |
戦力 | |
フランス軍 10,800 大陸軍 8,845 | 7,500 |
損害 | |
フランス軍 * 死者52人 * 負傷者 134人 大陸軍 * 死者20人 * 負傷者 56人 | 死者 156人 負傷者 326人 捕虜 7,018人 |
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ヨークタウンの戦い(ヨークタウンのたたかい、英: Battle of Yorktown)は、1781年に起こった、アメリカ独立戦争を事実上終結させた決定的な戦闘。
バージニア植民地東岸のグレートブリテン王国(イギリス)軍最終拠点であったヨークタウンにて、米仏連合軍がチャールズ・コーンウォリス率いるイギリス軍約7,000を包囲、降伏させた。この戦いによって、アメリカ独立戦争における植民地軍の勝利は確定し、独立戦争は事実上の終結を見た。
背景
1781年5月22日、フランス軍のロシャンボー将軍が大陸軍のワシントン将軍と会談し、イギリス軍に対する作戦を練った。彼らはイギリス軍に占拠されているニューヨークを奪回する作戦を考えていた。ニューヨークのイギリス軍は総司令官ヘンリー・クリントン指揮下の10,000名だった。一方で、バージニアにいたラファイエット将軍から報告があった。それによると、イギリス軍(コーンウォリス将軍)はヨークタウンで防御的な戦術を取ろうとしていた。ヨークタウンはバージニアのヨーク川傍にある。南部戦線を指揮するコーンウォリスはかつて広い範囲を占領していた。だがこの2年間にその戦力を漸減させた。残る兵力は7,000人になっていた。コーンウォリスは、ヨークタウンに戻って物資と増援が来るのを待つ体制を強いられていた。大陸軍のナサニエル・グリーン将軍による焦らし戦法(Fabian strategy)だった。ヨークタウンではイギリス海軍の支援が予定されていた。 1781年7月19日、ワシントン将軍はニューヨークのドブスフェリーに野営していた。コーンウォリスの状況を聞いて、ワシントン将軍は次のように記録している。「私の意見では、この状況下では2つのポイントに十分な戦力をつぎ込むべきだろう。1つはニューヨークに隣接する地域に大陸軍と民兵を、残りの大陸軍とフランス軍はバージニアへ」
1781年8月14日、ワシントン将軍は、フランス軍の艦隊がチェサピーク湾に向かっているとの知らせを受けた。西インド諸島にいたフランス軍のド・グラス提督からの知らせだった。
ヨークタウンの戦い
グラス提督の28隻からなるフランス艦隊はバージニアに向かった。同時に8月21日、ワシントンは軍を南下させ、その途中、ド・グラスの艦隊がチェサピーク湾に到着した。ド・グラスはそこでイギリス海軍のトーマス・グレイブス提督率いる艦隊とチェサピーク湾の海戦(ケープの戦いともいう)を行い、勝利した結果、湾の制海権を確保した。コーンウォリスは孤立した。18世紀19世紀の200年を通じてイギリスの艦隊が負けたのはこの海戦のみである。
1781年9月28日、ワシントンとロシャンボーはヨークタウンに到着し、ラファイエットの部隊およびグラスの3,000名と合流した。結局、コーンウォリスと対峙したのは17,000名となった。2対1の戦力差であった。ヨークタウンは攻囲され銃火に曝された。 コーンウォリスはその窮状をニューヨークのクリントンに知らせた。クリントンは援軍5,000名を載せた艦隊が10月5日までには到着すると約束した。両軍は互いに守りを固めていた。10月11日仏米連合軍はイギリス軍の鼻先わずか400ヤードから2回目の攻撃を開始した。3日後、連合軍はイギリス軍の堡塁2つを占領し、前線をイギリス軍の目前まで進めた。連合軍が包囲の輪を狭めてくる一方で、コーンウォリスはニューヨークからの救援隊の到着が遅れていることがわかった。10月16日、イギリス軍はフランス軍の砲兵隊に攻撃を挑んだが失敗した。前線が近づいた以上、連合軍の砲火はイギリス軍の陣地の中にも直接降り注いでいた。その夜、ヨーク川を渡ってグロウスターに脱走が試みられたが、ひどい嵐のために失敗した。コーンウォリスの軍は食料も弾薬も底を突きかけており、10月17日、遂に降伏を申し出た。10月19日、調印が行われ、正式に降伏した。約7,000名のイギリス軍が捕虜となった。なお、救援部隊を載せた英艦隊が到着したのはその5日後の10月24日であった。
結末
戦闘に続く翌朝、降伏の調印式が行われた。コーンウォリスは病気を理由に欠席した。欠席はしたものの彼はワシントンに「これは貴方の偉大な勝利だ。だが貴方の月桂冠はデラウェアの岸辺にこそ飾られるだろう。」と伝えている。伝説ではあるが、イギリス軍は『The World Turned Upside Down(世界がひっくり返った:イギリス名誉革命の頃の唄)』を吹奏しながら行進したというが、証拠は何も無い。コーンウォリスの副官がまずフランス軍のロシャンボー将軍に降伏を伝えようとしたとき、ロシャンボーの副官デュマが"Vous vous trompez, le général en chef de notre armée est à la droite"(間違っているよ。総司令官は右にいる)と言って、ワシントンのところへ連れていったというのは、有名な話である。その中尉は改めてワシントンに降伏を伝えたが、ワシントンはコーンウォリス自らが来ていないのでこれを拒み、部下である中尉は大陸軍の指揮官の一人であるベンジャミン・リンカーン将軍に降伏するよう指示した。中尉は彼の軍刀をリンカーンに渡し受領された。イギリス軍の全兵士が降伏し、当時の習慣で火器を踏みにじるよう要求された。
捕虜となったイギリス兵は大陸にいた兵士の約4分の1であった。イギリス軍はまだニューヨークやチャールストンのようなキーとなる港を占領していたので、その時点ではヨークタウンが戦争のクライマックスであるとは認識されていなかった。ヨークタウンの降伏後も散発的な戦闘は続いていた。ワシントンはまだしばらくは戦争が続くものと信じていた。
しかし、イギリスの首相フレデリック・ノースはヨークタウンの降伏の報せを聞いて辞任した。彼の後を受けたロッキンガム首相は戦争を続けることは得策ではないとして、和平の交渉に入ることを決めた。1783年パリ講和条約でイギリスはアメリカの独立を承認し、イギリス軍の大陸からの撤退を約束した。
関連項目
ヨークタウンの戦い
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「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「ヨークタウンの戦い」の解説
詳細は「ヨークタウンの戦い」を参照 コーンウォリスはバージニアに着くとピータースバーグに残っていたイギリス軍の指揮を執った。この地域はコーンウォリスの良き友人であり、コーンウォリスが到着する2日前に死去していたウィリアム・フィリップスが指揮を執っていたが、その跡を継いだことになる。イギリス軍の指揮官の間の通信は海に頼っていたので、この頃の所要時間は2、3週間に及び、コーンウォリスはクリントンに何も知らせていなかったので、北へ進軍してチェサピーク湾一帯の大陸軍補給基地を破壊しつつあると伝えた。。 1781年3月、ワシントン将軍はアーノルドとフィリップスからの脅威に反応してバージニア防衛のため、ラファイエット侯爵を送り込んだ。この若きフランス将校は3,200名を指揮していたが、この地のコーンウォリスが指揮するイギリス軍は補強されて7,200名になっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競り合いを演じたが、援軍を待つ間は決戦を避けていた。「私はあいつを逃がしはしない」とコーンウォリスが言ったとされるが、言に反してコーンウォリスはラファイエットを捕捉することができず、7月にイギリス海軍と連携を取るためヨークタウンに軍を進めた。コーンウォリスがクリントンからの命令を受け取ったのはこの頃である。その命令では、バージニア半島、当時の手紙では「ウィリアムズバーグ・ネック」と称された所で戦列艦を守るに適した場所を選び防御を施した海軍基地を造るということだった。この命令を実行するために、コーンウォリスは罠にはまりやすい位置に進むことになった。ド・グラスのフランス艦隊と、ワシントンとフランス軍のロシャンボー伯爵の指揮する米仏連合軍が到着するにおよび、コーンウォリスは孤立してしまったことがわかった。トマス・グレイブス提督のイギリス艦隊がチェサピーク湾の海戦でフランス艦隊に敗れ、ロードアイランド植民地のニューポートからはフランスの攻城砲が到着し、コーンウォリスの立場は耐えられないものになった。1781年10月19日、コーンウォリスは、追い詰められ降伏した。 コーンウォリスはクリントンに宛てた手紙でこの惨状を報告した。それは次のような文で始まっていた。 私はヨークとグロスターの地位を諦め、指揮下にある軍隊を降伏文書によって降伏させられたことを閣下に伝えると言う苦痛を味わっている、19日、アメリカの連合軍に対する戦争捕虜として。
※この「ヨークタウンの戦い」の解説は、「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の解説の一部です。
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