ヨークタウン‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【ヨークタウンの戦い】
ヨークタウンの戦い
ヨークタウンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/05 08:54 UTC 版)
「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「ヨークタウンの戦い」の解説
詳細は「ヨークタウンの戦い」を参照 コーンウォリスはバージニアに着くとピータースバーグに残っていたイギリス軍の指揮を執った。この地域はコーンウォリスの良き友人であり、コーンウォリスが到着する2日前に死去していたウィリアム・フィリップスが指揮を執っていたが、その跡を継いだことになる。イギリス軍の指揮官の間の通信は海に頼っていたので、この頃の所要時間は2、3週間に及び、コーンウォリスはクリントンに何も知らせていなかったので、北へ進軍してチェサピーク湾一帯の大陸軍補給基地を破壊しつつあると伝えた。。 1781年3月、ワシントン将軍はアーノルドとフィリップスからの脅威に反応してバージニア防衛のため、ラファイエット侯爵を送り込んだ。この若きフランス将校は3,200名を指揮していたが、この地のコーンウォリスが指揮するイギリス軍は補強されて7,200名になっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競り合いを演じたが、援軍を待つ間は決戦を避けていた。「私はあいつを逃がしはしない」とコーンウォリスが言ったとされるが、言に反してコーンウォリスはラファイエットを捕捉することができず、7月にイギリス海軍と連携を取るためヨークタウンに軍を進めた。コーンウォリスがクリントンからの命令を受け取ったのはこの頃である。その命令では、バージニア半島、当時の手紙では「ウィリアムズバーグ・ネック」と称された所で戦列艦を守るに適した場所を選び防御を施した海軍基地を造るということだった。この命令を実行するために、コーンウォリスは罠にはまりやすい位置に進むことになった。ド・グラスのフランス艦隊と、ワシントンとフランス軍のロシャンボー伯爵の指揮する米仏連合軍が到着するにおよび、コーンウォリスは孤立してしまったことがわかった。トマス・グレイブス提督のイギリス艦隊がチェサピーク湾の海戦でフランス艦隊に敗れ、ロードアイランド植民地のニューポートからはフランスの攻城砲が到着し、コーンウォリスの立場は耐えられないものになった。1781年10月19日、コーンウォリスは、追い詰められ降伏した。 コーンウォリスはクリントンに宛てた手紙でこの惨状を報告した。それは次のような文で始まっていた。 私はヨークとグロスターの地位を諦め、指揮下にある軍隊を降伏文書によって降伏させられたことを閣下に伝えると言う苦痛を味わっている、19日、アメリカの連合軍に対する戦争捕虜として。
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