モンマスの戦いとは? わかりやすく解説

モンマスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/22 03:39 UTC 版)

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モンマスの戦い

モンマスの戦いで指揮を執るワシントン
戦争アメリカ独立戦争
年月日1778年6月28日
場所ニュージャージーモンマス郡コートハウス
結果:イギリス軍の撤退、決着つかず
交戦勢力
大陸軍 イギリス軍
指導者・指揮官
ジョージ・ワシントン ヘンリー・クリントン
戦力
13,462 13,059
損害
死者69、熱中症による死者37、傷者160、行方不明95、合計361 死者65、熱中症による死者59、傷者170、行方不明14、捕虜50、合計358
アメリカ独立戦争

モンマスの戦い(モンマスのたたかい、: The Battle of Monmouth)は、アメリカ独立戦争中の1778年6月28日ニュージャージーのモンマス郡庁舎で、大陸軍イギリス軍の間で戦われた戦闘である。独立戦争中のアメリカ植民地北部では最後の大会戦となった。

背景

1777年秋にイギリス軍がフィラデルフィアを占領する一方で、サラトガバーゴイン将軍が降伏したために、北アメリカ派遣軍総司令官であったハウ将軍は1778年に辞職し、ヘンリー・クリントン将軍が後を継いだ。1778年2月にフランスがアメリカ側で参戦したことにより、イギリスは戦略を変えざるを得なくなった。イギリス軍のもう一つの占領地ニューヨークフランス海軍の脅威を受けることになったため、クリントンは本国からの命令でフィラデルフィアを明け渡し、モンマスから海路ニューヨークへ向かうことになった。

大陸軍は1777年12月から半年間、バレーフォージに宿営して訓練を重ね軍隊としての形を取り戻していた。ジョージ・ワシントンはクリントンの動きを探っており、撤退するイギリス軍の後ろを衝くことにした。

戦闘

大陸軍はバレーフォージから東に動いた。6月28日チャールズ・リー将軍が攻撃隊指揮を任され、イギリス軍の後衛に最初の攻撃を仕掛けた。イギリス軍がリーの側面に回って反撃に転ずると、リーはまだそれほどの銃火が交わされていなかったのにもかかわらず、全軍に退却を命じ部隊はすぐに混乱に陥ってしまった。ワシントンは意気消沈したリーを後方に下げ、自ら指揮を執って「ワシントンの前進」と後に言われた反撃を2回繰り返した。その日は大変暑い日であり、戦闘が膠着状態になると、両軍に熱中症で倒れる者が続出した。

結局、極度の疲れからクリントンは部隊に戦闘中止を命じた。ワシントンも再度攻撃を組織しようとしていたが、兵士たちが疲れており、日没近い6時ごろ戦闘が終わった。クリントンは所期の目的である撤退を完了できた。次の朝、大陸軍はイギリス軍の撤退を確認した。イギリス軍は7月1日には邪魔立てもなくサンディフックに到着し、そこからニューヨークに帰還した。

この戦闘の勝敗については明確な答えはないが、ワシントンは心の中で勝ったと思い、一方クリントンは撤退を成功させたことを重く見ていた。

戦いの後

この戦闘は植民地北部戦線では最後の大規模戦闘となり、また参戦した戦力からみて1日で行われた戦闘としては独立戦争中最大のものであった。さらにワシントン軍がイギリス軍と正面から向き合って大会戦を行い、負けなかったこととしてはプリンストンの戦いに続いて2度目の戦闘であった。 リーは後にニュージャージのイングリッシュタウンで軍法会議に掛けられて有罪とされ、1年間部隊指揮から外された[1]。 ワシントン軍はニューヨークのホワイト・プレインズに移動し、両軍とも2年前の1776年の状態に戻ったことになり、睨み合いが始まった。この後北部ではストーニーポイントの戦いのような小規模の戦闘はあったものの、戦いの主戦場は他所へ移った。

遺産

この戦闘にはモリー・ピッチャーの伝説がある。ピッチャーは主婦であり、砲兵であった夫とともに戦場へやってきて、夫が倒れた後に大砲の操作を引き継いだというものである。事実からすればこの話は何年もの間に尾ひれをつけて面白くされたきらいがある。現在の戦場跡にはピッチャーが戦ったという場所が2ケ所ある[2]

公式に保存を認められていたわけではないが、マンマス戦場跡は独立戦争の史跡としては保存状態がよく残されているものの一つである[2]。毎年6月の最後の週末に、現在のフリーホールド町とマナラパンにあるマンマス戦場跡州立公園で戦闘場面の再現が行われている。

脚注

外部リンク


モンマスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/16 19:52 UTC 版)

「モリー・ピッチャー」の記事における「モンマスの戦い」の解説

1778年6月にモンマスの戦いで、メアリーヘーズは、兵士らに与えて彼らの世話をした。戦いが始まる直前に、彼女は、供給として役立つ泉を見つけたし、戦場の2か所は今、「"Molly Pitcher Spring" 」としてマークつけられている。彼女は、しばしばイギリス軍激し砲火の下、兵士らと砲兵らに運んで前半生大部分過ごした天気はたいへん暑く、ウィリアム・ヘーズは戦闘中に、負傷してかまたは熱消耗によって、倒れた。彼は戦死したとしばしば報告されているが、しかし彼は生き抜いたことが知られている。彼は戦場から運び出されメアリーカノン砲彼の部署につき、夫の槊杖使用してカノン砲を「きれいにし、詰め」("swab and load")続けた或る時点では、イギリスのマスケット・ボール(musket ball)あるいはキャノンボール(cannonball)が、彼女の両脚の間を飛び抜け、彼女のスカートボトムちぎった。彼女は、何か「そうねえ、もっとひどくなったかもしれないわね」("Well, that could have been worse")という趣旨のことを言ったとされている。 ジョゼフ・プラム・マーティン(Joseph Plumb Martin)は、つぎのように書いて回想録或る事件思い出している、すなわちモンマスの戦いで、「夫が砲兵属して女性当時契約ピース愛着がある女性は、その間ずっと夫とともにそのピース世話をしていた。カートリッジに手を伸ばしできるだけ片足遠く踏み出している最中に、敵のカノン砲弾が、まさに彼女の両脚の間を通り抜けペチコート下半分すべてを運び去ること以外のなにもしなかった。見たところ平然とそれを眺めて、彼女は、もう少し高く通らなくてよかったわ、この場合、何か他の物を運び去ったかもしれないから、と述べた。」("A woman whose husband belonged to the artillery and who was then attached to a piece in the engagement, attended with her husband at the piece the whole time.While in the act of reaching a cartridge and having one of her feet as far before the other as she could step,a cannon shot from the enemy passed directly between her legs without doing any other damage than carrying away all the lower part of her petticoat.Looking at it with apparent unconcern,she observed that it was lucky it did not pass a little higher, for in that case it might have carried away something else, and continued her occupation.")しかし、砲員らに供給するマーティン記述している女性の、そしてその女性の夫が死傷病兵になったことの、言及はない。 その晩、晩(おそ)くに、戦闘は、迫りつつある暗闇のために、止められた。ジョージ・ワシントンとその指揮官らは戦闘翌日続くことを期待したが、イギリス軍は、夜の間に退却しニュージャージー、サンディー・フック(Sandy Hook)まで進み続けた戦闘後将軍ワシントンは、戦場カノン砲装填しているのを見た女性に関して訊ねた。彼はその勇気記念として、メアリー・ヘーズに下士官として准尉任命辞令発したそののち、彼女は「サージェント・モリー」("Sergeant Molly")として知られたが、これは彼女が死ぬまで用いたニックネームである。John McCauley

※この「モンマスの戦い」の解説は、「モリー・ピッチャー」の解説の一部です。
「モンマスの戦い」を含む「モリー・ピッチャー」の記事については、「モリー・ピッチャー」の概要を参照ください。

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