サラトガ‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【サラトガの戦い】
サラトガの戦い
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サラトガの戦い(サラトガのたたかい、英: Battle of Saratoga )は、アメリカ独立戦争中の1777年9月から10月にかけて、ニューヨーク州サラトガの近くで、大陸軍とイギリス軍の間に行われた戦いである。サラトガの戦いとは、2つの小戦闘の総称である。すなわち、フリーマン農場の戦い(第一次サラトガの戦い)とベミス高地の戦い(第二次サラトガの戦い)である。この戦いの結果はジョン・バーゴイン将軍指揮するイギリス軍の降伏につながり、イギリス軍のカナダからの侵攻作戦(サラトガ方面作戦)が終わった。
- 1 サラトガの戦いとは
- 2 サラトガの戦いの概要
- 3 背景
- 4 戦闘
- 5 戦いの後
- 6 遺産
サラトガの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
詳細は「サラトガの戦い」を参照 「サラトガの戦い」は1つの出来事として表現されることが多いが、実際には、2つの戦闘を節目とする1ヶ月間にわたる作戦行動だった。1777年9月初め、バーゴイン軍は勢力7,000名を少し上回るものであり、ハドソン川の東岸に留まっていた。セントリージャーの部隊がスタンウィックス砦でしくじったことを8月28日に知り、ハウがニューヨーク市からそこそこの支援を送るつもりがないこともその前に知っていた。冬季の防御しやすい宿営地に入る必要があったが、それはタイコンデロガ砦まで引き返すか、オールバニまで進むことであり、バーゴインはオールバニを選んだ。この判断に続いて、さらに2つの重要な決断をした。1つは北との通信線を遮断することであり、それで自軍の位置とタイコンデロガ砦との間にある厚く防御を施した基地の並びを維持する必要が無くなった。もう1つは、比較的強固な陣地にいたにも拘わらずハドソン川を西に渡ることにしたことだった。後方にいたリーデゼルの部隊にスキーンスボロから南の基地を放棄するよう命じ、サラトガの直ぐ北で川を渡るよう命じた。渡河は9月13日から15日に掛けて行われた。インディアンの支援が無くなっていたことで信頼できる斥候部隊が居らず、バーゴイン軍は慎重に動いて南に進んだ。9月18日、バーゴイン軍の前衛隊はサラトガの直ぐ北、大陸軍の防衛線からは約4マイル (6 km) に到着し、両軍の先導部隊の間で小競り合いが起こった。 ゲイツがスカイラーの軍を引き継いだとき、その大半はスティルウォーターの南、モホーク川の河口近くにいた。9月8日、当時10,000名(その8,500名が実質的戦闘員)になっていた軍隊にスティルウォーターで防御線を張るよう命じた。ポーランド人工兵技師タディアス・コシューシコはその地域が防御工作に適していないことが分かったので、さらに北3マイル (5 km) の新しい場所を見付けた(サラトガからは約10マイル (16 km) 南)。この場所でコシューシコは川からベミス高地と呼ばれる崖まで防御線を敷かせた。 この防御線の右翼は名目上リンカーン将軍に与えられたが、リンカーンはタイコンデロガ砦に対する陽動行動を意図した部隊を率いていたので、ゲイツ自身がその部分の指揮を執った。ゲイツは以前人間関係の良かったベネディクト・アーノルド将軍を軍の左翼、西の防衛線であるベミス高地に置いた。アーノルドがゲイツの憎んでいるスカイラーの友人を参謀に選んだとき、2人の間の関係がこじれた。ゲイツとアーノルド双方の癖のある性格とも組み合わされ、内部の権力争いにまで発展することになった。
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