キングスマウンテンの戦い
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キングスマウンテンの戦い(キングスマウンテンのたたかい、英:Battle of Kings Mountain)は、アメリカ独立戦争中の1780年10月7日に南部戦線のノースカロライナ、キングスマウンテンで、愛国者(アメリカ独立を志向する者)軍民兵と王党派(イギリスへの忠誠を重んじ、独立を志向しない者)軍民兵の間で戦われた戦闘である。愛国者軍の勝利によって、イギリス軍南部方面軍指揮官のチャールズ・コーンウォリスが当てにしていた王党派の支援が潰えてしまったことで重要な意味がある。後にセオドア・ルーズベルトは「アメリカ独立戦争の転換点となった輝かしい勝利だ」と書き記した。
- 1 キングスマウンテンの戦いとは
- 2 キングスマウンテンの戦いの概要
- 3 背景
- 4 戦闘
- 5 戦闘の後
キングスマウンテンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 18:57 UTC 版)
「アイザック・シェルビー」の記事における「キングスマウンテンの戦い」の解説
シェルビーとクラークはマスグラブミルの戦いで逃亡したイギリス兵を追わないことにした。その代わりにナインティシックスにあるイギリス軍の砦を標的にすることにした。そこでならファーガソンを見付けられると考えた。しかし、そこへ向かう途中で、ホレイショ・ゲイツ将軍がキャムデンの戦いで敗れたという報せが入った。チャールズ・コーンウォリス将軍の後ろ盾を得て、ファーガソンはその全軍でシェルビー隊に向かってくる可能性があったので、シェルビーはアパラチア山脈を越えてノースカロライナに退いた。 植民地軍が撤退すると、大胆になったファーガソンは釈放した捕虜1人に山を越えさせ、植民地軍にその抵抗を止めること、さもないと田畑を荒らすぞと警告してきた。このことに怒ったシェルビーとジョン・セビアはイギリス軍に対する次の襲撃作戦を立て始めた。シェルビーとセビアはそれぞれ240名の兵士を集め、これにバージニアのワシントン郡からウィリアム・キャンベルの400名、ノースカロライナのバーク郡とラザフォード郡からチャールズ・マクドウェルの160名が合流した。この部隊は9月25日にシカモアショールズに結集した。続いてブルーリッジ山脈の剣呑な地形を過ぎ、9月30日にノースカロライナのモーガントン近くにあるマクドウェルの領地に到着した。ここではサリー郡とウィルクス郡からベンジャミン・クリーブランド大佐とジョセフ・ウィンストン少佐の率いる350名が合流した。 合流した部隊はファーガソン隊をキングスマウンテンに追跡した。そこではファーガソンが防御を施し、「全能なる神と地獄からの反逆者」でなければ、そこから排除することはできないと宣言していた。キングスマウンテンの戦いは1780年10月7日に始まった。シェルビーはその部隊に樹木から樹木に渡って前進し樹木の背後から射撃するよう命令した。このやり方は以前に対戦したインディアンが使っていたので、「インディアン・プレイ」と呼んだ。ファーガソンは3つの別々のタイミングで銃剣突撃を命じてシェルビーの部隊を撃退しようとしたが、最後は植民地軍がファーガソン隊をその陣地から追い出した。ファーガソンとその主要な士官達は戦いに負けたと考え、撤退を試みた。植民地軍はファーガソンを殺せと指示されていた。セビアの兵士が同時にファーガソンの両腕を破壊し、その頭蓋を貫通して乗っていた馬から落とした。指揮官が倒されたのを見たイギリス兵は降伏の白旗を振った。 キングスマウンテンはシェルビーの軍歴で最高の時であり、このことから「オールド・キングスマウンテン」という渾名も貰った。ノースカロライナ議会はこの功績でシェルビーとセビアに感謝状を出すことを票決し、両者に2挺の拳銃と儀式用の剣を贈るよう命令した(シェルビーは1813年に議会に請求するまでこれらの贈り物を受け取れなかった)。 植民地軍と捕虜達がキングスマウンテンからの行軍を始めたときに、イギリス軍がナインティシックス砦で9人の植民地軍捕虜を絞首刑にしたこを知った。これはこの地域で初めての出来事ではなく、憤激した植民地人はカロライナではもう絞首刑をやらせないと誓った。部隊の中から陪審員を集めたがこれはノースカロライナの判事が居たので合法だった。植民地人は任意に捕虜を選りだし、窃盗から放火殺人までの罪で告発した。その夜までに陪審員は36人の捕虜を有罪とし、絞首刑を宣告した。しかし、最初の9人が刑に処せられた後で、シェルビーはその停止を命じた。その命令について理由を述べなかったが、それでも命令は守られ、残った「死刑囚」は仲間の捕虜の所に戻った。 キングスマウンテンの勝者と捕虜達は10月10日朝早くにマクドウェルの領地に戻った。そこからは何人かの指揮官とその部隊が別々の道に進んだ。シェルビーとその部隊はダニエル・モーガン将軍の部隊とサウスカロライナのニュープロビデンスで合流した。そこにいる間にシェルビーはモーガンにナインティシックス砦とオーガスタを占領するよう進言した。というのも、そこにいるイギリス軍がチェロキー族インディアンに武器を供与し開拓者達を襲わせていると考えたからだった。モーガンはその作戦に同意し、その地域の植民地軍最高指揮官のホレイショ・ゲイツも同意した。シェルビーはその作戦が実行されることを確信し、翌年春に300名の部隊を連れて戻ってくると約束して家に戻った。モーガンはナインティシックス砦に向かう途中で、イギリス軍バナスター・タールトンに攻撃され、カウペンスの戦いで決定的な勝利を奪った。シェルビーは後に、シェルビーが家に帰った数日後にゲイツを解任したナサニエル・グリーン将軍がカウペンスでの最大の功績を主張したという事実を悔やんだ。モーガンにその作戦を始めるようにしたのはシェルビーの作戦だった。
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