キングスマウンテンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 08:54 UTC 版)
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キングスマウンテンの戦い | |
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戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1780年10月7日 | |
場所:ノースカロライナ、キングスマウンテン | |
結果:愛国者軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
愛国者軍民兵 | 王党派軍民兵 |
指導者・指揮官 | |
ウィリアム・キャンベル ジェイムズ・ウィリャムズ† |
パトリック・ファーガソン† |
戦力 | |
900 | 1,100 |
損害 | |
死者 28 負傷者 62 |
死者 157 負傷者 163 捕虜 698 |
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キングスマウンテンの戦い(キングスマウンテンのたたかい、英:Battle of Kings Mountain)は、アメリカ独立戦争中の1780年10月7日に南部戦線のノースカロライナ、キングスマウンテンで、愛国者(アメリカ独立を志向する者)軍民兵と王党派(イギリスへの忠誠を重んじ、独立を志向しない者)軍民兵の間で戦われた戦闘である。愛国者軍の勝利によって、イギリス軍南部方面軍指揮官のチャールズ・コーンウォリスが当てにしていた王党派の支援が潰えてしまったことで重要な意味がある。後にセオドア・ルーズベルトは「アメリカ独立戦争の転換点となった輝かしい勝利だ」と書き記した。
背景
1780年8月16日のキャムデンの戦いで大陸軍のホレイショ・ゲイツ将軍が大敗し、イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍はジョージアとサウスカロライナを支配下に収め、ノースカロライナ侵攻の作戦を立て始めた。しかし、サウスカロライナでは植民地の者同士の内戦が激しさを増し続けていた。元々イギリス軍が南部に侵攻したのは、南部に潜伏する王党派の民を糾合してこの地域を支配すれば、戦争を有利に進められるという読みであり、正規軍以外に王党派民兵による部隊を結成していた。大陸軍南部方面軍は崩壊状態だったので、一群の自称大佐達、アイザック・シェルビー、イライジャ・クラーク、チャールズ・マクダウエルらによって率いられた愛国者軍民兵が、王党派軍民兵の前哨部隊に奇襲攻撃をかける戦法を採っていた。コーンウォリスは自軍の西方を守るために、パトリック・ファーガソンを送って民兵の指揮を執らせた。
コーンウォリスは1780年9月9日にノースカロライナに入り、9月26日にはシャーロットに到着した。ファーガソンも後を追い、ギルバータウンに前進基地を設営したうえで、愛国者軍の指揮官に、武器を捨てて降伏するか、さもなくば「火と刀でお前達の郷土を破壊してやる」と挑戦状を送った。しかし、この乱暴な物言いはアパラチア開拓民からなる民兵を焚きつけただけであり、ファーガソンの王党派軍が来る前に戦闘に討って出ることに決めた。これらの民兵は山を越えてきていたので、オーバー・マウンテン部隊とも呼ばれていた。総勢は約900名とされているが、実際にはもう少し多かった可能性がある。全体を統率する指揮系統は無く、ウィリアム・キャンベル、ジョン・セビア、ジョセフ・マクダウエル、ベンジャミン・クリーブランド、ジェイムズ・ウィリャムズら大佐達がそれぞれの部隊を指揮していた。他にもジョセフ・ウィンストン、エドワード・レイシー、フレデリック・ハムブライトといった大尉達が独自の部隊を率いていた。
王党派軍は、ファーガソン以外はすべて王党派のアメリカ植民地人であり、1,000名を超える訓練された民兵であった。
戦闘
戦端は1780年10月7日に開かれた。デイビッド・クロケットの父親であるジョン・クロケットや、テネシーの初期開拓者でオーバー・マウンテン部隊の指導者であるギルバート・クリスティアンを含む900名の愛国者軍が夜明けにキングスマウンテンの基地に接近した。愛国者軍は100名から200名の兵士からなる8つの部隊になっていた。ジョン・セビアとウィリアム・キャンベルに率いられた2つの部隊が、山の「ハイヒール」、狭いが最も標高が高い地点を急襲した。シェルビー、ウィリャムズ、クリーブランド、マクダウエル、およびウィンストンに率いられた6つの部隊は、山の「ヒール」の側、基地の「ボール」(足裏の土踏まずの前にある丸い部分)にあたる場所にいた王党派主力部隊に攻撃を仕掛けた。
愛国者軍は丘によじ登り、岩や木の陰から緋色の上着の王党派を銃撃した。ファーガソンは部隊を鼓舞して、キャンベルとセビアの部隊に銃剣攻撃を掛けさせた。愛国者軍は銃剣が無かったので撤退し丘を降りて森に入った。しかしキャンベルは部隊を再結集させて、丘の麓に取って返し銃撃を再開した。ファーガソンは更に2度銃剣攻撃を掛けた。この攻撃でジェイムズ・ウィリャムズ大佐が戦死し、マクダウエル大佐は傷を負った。しかし銃剣攻撃が終わるごとに、愛国者軍は丘の麓に戻り銃撃を再開した。愛国者軍は絶え間なく動いていたので、王党派軍は目標を定めるのが難しかった。
数時間の戦闘後、王党派の損害が増えていった。ファーガソンは馬に乗って丘を前後に行き来し、戦闘の合図である銀の笛を吹き鳴らしていた。ファーガソンは死に物狂いになっていて、士官上着の上に格子縞のシャツを羽織った。愛国者兵士の一人がこれを目敏く見つけて、即座に同僚の注意を喚起した。この時愛国者軍は丘の頂上の王党派軍を圧倒しており、多くのライフル銃がファーガソンを襲った。ファーガソンは鞍から落ちて死んだ。
指揮官の戦死を目の当たりにした王党派兵は戦意を失い、武器を挙げて降伏を始めた。ワックスホーの虐殺などで痛い思いをしていた愛国者軍は報復の念が強く、捕虜を取るようなムードではなかった。愛国者軍は銃撃を続け、「やつらにタールトンの慈悲を」と叫んでいた。しかし流血の数分後には愛国者達も自制心を取り戻し、ほぼ700名を捕虜にした。
戦闘の後
王党派軍は157名が戦死し、163名が重傷を負った。降伏したものは698名であった。愛国者軍は戦死28名、傷者62名であった。王党派の捕虜で歩けるものは戦場から数マイル離れた宿営地に連行された。死体と傷者は戦場に放置された。愛国者達は寝返っていた王党派9人を絞首刑に処した。ノースカロライナの刑法違反で州裁判所に引き出された王党派の者もいたとのことである。絞首刑にされた者は、放火、家屋破壊および市民殺害の廉で刑を執行された。
ワトーガ開拓地のジョセフ・グリアが600マイル(950 km)の距離を1ヶ月掛けて、大陸会議にこの戦闘での勝利を伝えた。グリアは11月7日にフィラデルフィアに到着し[1] 、愛国者軍勝利の報告は意気消沈していた大陸会議を元気付けた。[2]
1931年、アメリカ合衆国議会はキングスマウンテン国立軍事公園を戦場跡に創った。公園の管理事務所はブラックスバーグにあり、毎年25万人の観光客が訪れている。
関連項目
外部リンク
- National Park web pages
- Description of the Battle
- Roan Mountain (Tennessee) Citizens Club - Overmountain Men Celebration
- "'Kings Mountain Messenger' bravery remembered by few". Kate Howard. The Tennessean. July 4, 2006.
- Georgia Participants at Kings Mountain (offered by Georgia Society, Sons of the American Revolution)
キングスマウンテンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 18:57 UTC 版)
「アイザック・シェルビー」の記事における「キングスマウンテンの戦い」の解説
シェルビーとクラークはマスグラブミルの戦いで逃亡したイギリス兵を追わないことにした。その代わりにナインティシックスにあるイギリス軍の砦を標的にすることにした。そこでならファーガソンを見付けられると考えた。しかし、そこへ向かう途中で、ホレイショ・ゲイツ将軍がキャムデンの戦いで敗れたという報せが入った。チャールズ・コーンウォリス将軍の後ろ盾を得て、ファーガソンはその全軍でシェルビー隊に向かってくる可能性があったので、シェルビーはアパラチア山脈を越えてノースカロライナに退いた。 植民地軍が撤退すると、大胆になったファーガソンは釈放した捕虜1人に山を越えさせ、植民地軍にその抵抗を止めること、さもないと田畑を荒らすぞと警告してきた。このことに怒ったシェルビーとジョン・セビアはイギリス軍に対する次の襲撃作戦を立て始めた。シェルビーとセビアはそれぞれ240名の兵士を集め、これにバージニアのワシントン郡からウィリアム・キャンベルの400名、ノースカロライナのバーク郡とラザフォード郡からチャールズ・マクドウェルの160名が合流した。この部隊は9月25日にシカモアショールズに結集した。続いてブルーリッジ山脈の剣呑な地形を過ぎ、9月30日にノースカロライナのモーガントン近くにあるマクドウェルの領地に到着した。ここではサリー郡とウィルクス郡からベンジャミン・クリーブランド大佐とジョセフ・ウィンストン少佐の率いる350名が合流した。 合流した部隊はファーガソン隊をキングスマウンテンに追跡した。そこではファーガソンが防御を施し、「全能なる神と地獄からの反逆者」でなければ、そこから排除することはできないと宣言していた。キングスマウンテンの戦いは1780年10月7日に始まった。シェルビーはその部隊に樹木から樹木に渡って前進し樹木の背後から射撃するよう命令した。このやり方は以前に対戦したインディアンが使っていたので、「インディアン・プレイ」と呼んだ。ファーガソンは3つの別々のタイミングで銃剣突撃を命じてシェルビーの部隊を撃退しようとしたが、最後は植民地軍がファーガソン隊をその陣地から追い出した。ファーガソンとその主要な士官達は戦いに負けたと考え、撤退を試みた。植民地軍はファーガソンを殺せと指示されていた。セビアの兵士が同時にファーガソンの両腕を破壊し、その頭蓋を貫通して乗っていた馬から落とした。指揮官が倒されたのを見たイギリス兵は降伏の白旗を振った。 キングスマウンテンはシェルビーの軍歴で最高の時であり、このことから「オールド・キングスマウンテン」という渾名も貰った。ノースカロライナ議会はこの功績でシェルビーとセビアに感謝状を出すことを票決し、両者に2挺の拳銃と儀式用の剣を贈るよう命令した(シェルビーは1813年に議会に請求するまでこれらの贈り物を受け取れなかった)。 植民地軍と捕虜達がキングスマウンテンからの行軍を始めたときに、イギリス軍がナインティシックス砦で9人の植民地軍捕虜を絞首刑にしたこを知った。これはこの地域で初めての出来事ではなく、憤激した植民地人はカロライナではもう絞首刑をやらせないと誓った。部隊の中から陪審員を集めたがこれはノースカロライナの判事が居たので合法だった。植民地人は任意に捕虜を選りだし、窃盗から放火殺人までの罪で告発した。その夜までに陪審員は36人の捕虜を有罪とし、絞首刑を宣告した。しかし、最初の9人が刑に処せられた後で、シェルビーはその停止を命じた。その命令について理由を述べなかったが、それでも命令は守られ、残った「死刑囚」は仲間の捕虜の所に戻った。 キングスマウンテンの勝者と捕虜達は10月10日朝早くにマクドウェルの領地に戻った。そこからは何人かの指揮官とその部隊が別々の道に進んだ。シェルビーとその部隊はダニエル・モーガン将軍の部隊とサウスカロライナのニュープロビデンスで合流した。そこにいる間にシェルビーはモーガンにナインティシックス砦とオーガスタを占領するよう進言した。というのも、そこにいるイギリス軍がチェロキー族インディアンに武器を供与し開拓者達を襲わせていると考えたからだった。モーガンはその作戦に同意し、その地域の植民地軍最高指揮官のホレイショ・ゲイツも同意した。シェルビーはその作戦が実行されることを確信し、翌年春に300名の部隊を連れて戻ってくると約束して家に戻った。モーガンはナインティシックス砦に向かう途中で、イギリス軍バナスター・タールトンに攻撃され、カウペンスの戦いで決定的な勝利を奪った。シェルビーは後に、シェルビーが家に帰った数日後にゲイツを解任したナサニエル・グリーン将軍がカウペンスでの最大の功績を主張したという事実を悔やんだ。モーガンにその作戦を始めるようにしたのはシェルビーの作戦だった。
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