南部戦線:1778年-1781年とは? わかりやすく解説

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南部戦線:1778年-1781年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:33 UTC 版)

アメリカ独立戦争」の記事における「南部戦線:1778年-1781年」の解説

詳細は「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」を参照 独立戦争最初3年間は、主戦場アメリカ北部限られていた。フランス参戦してからのイギリスは、王党派が多いと思われ南部目を向けて王党派支援得られればそこを支配できる目論んだ南部注力することはイギリス海軍カリブ海近く配置することができ、フランススペイン連合軍脅威受けているカリブ海植民地守りやすくするという利点もあった。 1778年12月29日に、ニューヨークから転進したクリントン遠征隊がジョージアサバンナ占領したクリントン続いてサウスカロライナチャールストン包囲し1780年5月2日陥落させた。クリントン比較少な損失南部最大の都市港湾確保し南部制圧への道を切り開いた南部大陸軍チャールストンで5,000名ほどにおよぶ戦力降伏したために崩壊態となり、残った兵力バナスター・タールトン中佐追撃をうけ、1780年5月29日ワックスホーの虐殺でまた新たな損失受けたそうした状況大陸軍組織だった作戦行動をできなくなったが、それでもフランシス・マリオンなどのパルチザンによって抗戦続けられた。コーンウォリスイギリス軍の指揮官となり、一方大陸軍北部からホレイショ・ゲイツ送って南部方面軍指揮官とした。しかし1780年8月16日ゲイツキャムデンの戦い大陸軍始まって以来大敗喫しコーンウォリスノースカロライナ進軍する道を与えてしまった。 しかし、コーンウォリス側も事態変わり始めた10月7日キングスマウンテンの戦い彼の一翼担っていた部隊完敗した。この戦い王党派民兵愛国民兵戦いだった。タールトンの部隊1781年1月17日大陸軍ダニエル・モーガン将軍とのカウペンスの戦い決定的な敗北喫したゲイツの後を継いだナサニエル・グリーン将軍一連の戦いでイギリス軍消耗させる戦略出たそれぞれの戦いイギリス軍戦術的勝利になったが、戦略的には得る物がほとんど無かったグリーンは後に有名となるモットー戦い撃たれ立ち上がり、また戦う(We fight, get beat, rise, and fight again.)」で部隊鼓舞したコーンウォリスグリーン軍隊打ち破ることもできないままに、北のバージニアへの進軍決めた1781年3月ワシントン将軍ラファイエットバージニア防衛のために派遣したフランス若き将校は3,200名ほどの部隊指揮していたが、この地のコーンウォリス指揮するイギリス軍補強されて7,200名ほどになっていた。ラファイエットコーンウォリス小競り合い演じたが、援軍を待つ間は決戦避けていた。コーンウォリスラファイエット捕捉することができず、結局は7月イギリス海軍連携取ってニューヨークへ戻る道を切り開くためヨークタウンに軍を進めた

※この「南部戦線:1778年-1781年」の解説は、「アメリカ独立戦争」の解説の一部です。
「南部戦線:1778年-1781年」を含む「アメリカ独立戦争」の記事については、「アメリカ独立戦争」の概要を参照ください。

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