イギリス軍の指揮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:17 UTC 版)
「アイザック・ブロック」の記事における「イギリス軍の指揮」の解説
ブロックが生きている間は圧倒的な勢いのあったイギリス軍は、ブロックの死によって大きな打撃を蒙ることになった。ブロックの後継者シェフは、クィーンストン・ハイツでの指揮はうまくいったが、その後はブロックの域まで達することがなかった。ヨークの戦いで撤退したことについて、ジョン・ストラッチャンなど多くの者に批判を受けたシェフは、間もなくイギリスに呼び戻され、輝かしくはないもののそこそこの経歴を積んだ。 しかし、デトロイト砦の後継者はもっとひどかった。ヘンリー・プロクター大佐は、後にアメリカ合衆国大統領になったウィリアム・ハリソン指揮する再編された北西部アメリカ軍の攻撃を受けた。ハリソンはデトロイト砦の再奪取に動いたが、その分遣隊が1813年1月22日にフレンチタウンで敗北を喫した。プロクターは判断の悪さを露呈し、捕虜をインディアンの手の届くところに放置したために、インディアンが60名の捕虜を処刑してしまった。それに続くアメリカ軍の勝利によって、ハリソンはカナダ侵攻の軍を起こし、10月5日のテムズの戦いにつながった。この戦いでは、アメリカ軍の攻勢に怯んだプロクターが撤退し、テカムセとそのインディアン戦士だけで戦わせることになった。テカムセ達は抗戦したが結局敗北した。たぶんイギリス軍にとって大きな影を落したのが、この戦いでのテカムセの死とそれに続く同盟インディアンとの協調の終焉であった。 ブロックとしばしば衝突していたプレボスト総督の方は、1814年のプラッツバーグの戦いの後までイギリス軍の指揮を続けた。プラッツバーグの戦いは海軍と陸軍歩兵が協同して攻撃を掛けることが意図されていたが、プレボストは湖上での戦いが終わるまで陸軍を動かそうとはしなかった。プレボストが攻撃をかけさせた時は、最近昇進したばかりのウール少佐に率いられる少数のアメリカ正規兵が確保したサラナック川の橋を越えられなかった。戦力的にはかなり上回っていたにも拘わらず、プレボストは海軍の敗北を聞くと撤退を決めた。この失敗によって、プレボストはイギリスに呼び戻され審問に掛けられることになった。プレボストは間もなく健康を害し、1815年早々に死んだ。
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