イギリス軍の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 15:24 UTC 版)
「バンカーヒルの戦い」の記事における「イギリス軍の失敗」の解説
一方イギリス軍の指揮官達はブリーズヒルの工事を発見してからの行動が遅かった。攻撃の準備が整ったのは、リヴリーが最初に砲火を浴びせてからおよそ10時間経った午後2時だった。この緩慢な反応によって、大陸軍の防御が足りていなかった陣地側面の強化を行う時間を与えてしまった。ゲイジとハウは敵陣地に対する正面攻撃が簡単なことだと判断したが、包囲する動き(チャールズタウン・ネックの占領)をしておれば、より完全な勝利を得たことであろう。このような動きについては、大陸軍がケンブリッジの高地からの大砲でチャールズタウン・ネックを守ろうとすることができたので、危険性が無いわけではなかったが、イギリス軍の指揮官達は過度に楽観的であり、「植民地軍を破るには2個連隊で十分」と考えていた。 ハウは戦場に立つと、堡塁に焦点を当てるのではなく、その左翼に対して2度までも側面攻撃をおこなうことで堡塁に対する攻撃隊を弱める選択をした。側面攻撃が単に陽動行動となったのは第三次攻撃になってからであり、このとき主力が(さらに予備隊で補強されてもいた)堡塁に対して正面から攻撃し、成功した。 イギリス軍は半島を制圧した後、戦術的に有利であったためケンブリッジを圧迫することができ、実際にクリントン将軍がこのことをハウに提案したが、ハウは3回の攻撃で大きな損失を出していたのでその考えを却下した。その後ハウは植民地の軍事指導者達からその損失に対して意思決定を躊躇う者と認識されるようになった。1776年のロングアイランドの戦い後にもハウはワシントン軍を屈服させられるだけの有利な情勢であったが、やはりそれ以上の行動を拒んだ。 歴史家のジョン・E・フェーリング(英語版)は、もしゲイジ将軍がイギリス艦隊でチャールズタウン・ネックを確保して大陸軍を本土から切り離していたら、実際よりもはるかに少ない損失で勝利できたと主張した。しかし、ゲイジはレキシントン・コンコードの戦いの後に報復しようとしたことと、植民地の民兵が訓練を受けておらず簡単に勝利できると考えて正面から襲撃した。
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