植民地の軍事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:26 UTC 版)
「ウィリアム・テイラー」の記事における「植民地の軍事」の解説
テイラーはその後イングランドに行った。そこではノバスコシアでの権利を主張するトマス・テンプル卿の承継者ジョン・ネルソンのためにロビー活動を行った。ネルソンは1667年のブレダ条約で失った領地の代償を求めていたが、テイラーの努力は無駄に終わった。テイラーは自分のためにも軍隊恩給の受給を働きかけた。コブハム卿を説得し、1710年のポートロイヤルでの功績について認めさせることに成功し、大佐の給与の半分、年400ポンドを与えられることになった。ジョン・ネルソンは、テイラーが副総督の職を失ったこと(年50ポンドに相当)が「彼にとっては大いに利点になった」と言っていた。 テイラーは最後はマサチューセッツに戻った。シュートが総督である間に何度か、北部フロンティアのインディアンとの交渉に関わった。植民地民兵隊での活動も続けた。1717年、シュートと共に、ニューイングランド北部のアベナキ族と交渉するためにメイン遠征に同行した。シュートはその交渉がうまく果たせず、アベナキ族とイギリス人開拓者の間の緊張関係を増加させた。1720年、テイラーは開拓者とアベナキ族の間を仲立ちするために派遣された役人の一人となった。合意のために可能性ある条件が明らかになってはきたが、襲撃が続き、提案された条件の詳細には合意できなかったことで、事態はさらに悪くなった。メイン海岸のイギリス人開拓地に対する襲撃が続いた後の1722年7月、シュートはアベナキ族に対して宣戦布告した。 シュートは植民地議会との間に紛争が絶えず、そのことで1723年初期にはイングランドに戻ることになった。戦争の処理は副総督のダマーに委ねた。テイラーは1723年にニューヨーク植民地オールバニに派遣され、イロコイ族をアベナキ族との戦争に参戦するように説得することを目指した一隊の指導的一員になった。しかしその任務は不成功だった。イロコイ族はアベナキ族に対する戦争に関わらせようとする全ての試みに抵抗した。テイラーは戦争への関与を続け、ボストン防衛を維持する任務にあたった。
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