ニュージャージー植民地副総督
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「トマス・パウナル」の記事における「ニュージャージー植民地副総督」の解説
パウナルは自費で生活しており、地位を得られれば自活できることになると期待していた。1755年5月、ニュージャージー植民地副総督に指名された。この職は年取ったジョナサン・ベルチャー総督の死を待つことと、継続中の戦争に関する軍事的な会議に出ること以外ほとんど責任が無かった。しかし、ベルチャーは思ったより長生きし(実際には1757年に死んだ)、パウナルは落着けなかった。軍事的な会議はジョンソンとシャーリーの間に続いていたインディアン問題に関する権力闘争にパウナルを引き込んだ。1755年7月にエドワード・ブラドック将軍が戦死してから、シャーリーが植民地の軍事総司令官になっていた。ジョンソンはフロンティアの安全確保に関するパウナルの関心につけこみ、その陣営にパウナルを引き込んだ。パウナルは既にそれ以前に冷遇されたことについてシャーリーに幾らか嫌悪感を抱くようになっており、ニューヨーク総督のチャールズ・ハーディ卿に宛てた報告書で、他のジョンソン支持者によって与えられた印象を悪くする申し立てとも組み合わされ、シャーリーを総司令官から解任させることになった。パウナルは1756年初期にイングラドに戻り、そこでジョンソンの主張を確認し、新しい総司令官であるラウドン卿の「特別補佐官」の地位を与えられた。ただしこの地位はパウナルが創出したものだった。 パウナルがイングランドにいる間に、シャーリーの評判は軍事情報を敵の手に渡したという申し立てによってさらに悪くなり(パウナルの行動によっては悪くならなかった)、貿易委員会がシャーリーの呼び戻しを決めた。パウナルはペンシルベニアの領主達からそこの総督職を提案されたが、パウナルが幅広い権限を要求したために、結局その提案は引き下げられた。パウナルはこのことを自分の利点に向け、「領主たちの不合理で無知蒙昧な態度」の故に申し出を断ったと広く宣伝した。 パウナルはラウドンと共に1756年7月にアメリカに戻ったが、再度ラウドンの代行としてイングランドに戻り、シャーリーの軍隊指導に関する審問を行った。ラウドンはその軍事作戦と目標もパウナルに指示していた。ロンドンでは新しいピット・ニューカッスル内閣の閣僚に、北アメリカの事情について情報を与えることに深く関わるようになった。この件に関する功績によって、1757年3月にはマサチューセッツ植民地総督に指名されることになった。植民地に関する能力を称賛されるようになったが、その虚栄心と短気を批判されもし、またシャーリーを失墜させたときの役割も批判された。
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