ニュージャージー植民地総督とは? わかりやすく解説

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ニュージャージー植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 08:27 UTC 版)

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ニュージャージー植民地総督では、アメリカ合衆国ニュージャージー州の植民地時代の総督を列挙する。

イギリス支配以前

ニューネーデルラントの指導者(1624年–1664年)

氏名 就任 退任
コルネリウス・ヤコブセン・マイ 1624年 1625年
ウィレム・フェルフルスト 1625年 1626年
ピーテル・ミヌイット 1626年 1631年
セバスティアン・ヤンセン・クロール 1632年 1633年
ウォウテル・ファン・トウィレル 1633年 1638年
ウィレム・キーフト 1638年 1647年
ピーター・ストイフェサント 1647年 1664年

ニュースウェーデン総督(1638年–1655年)

氏名 就任 退任
ピーテル・ミヌイット 1638年 1638年
モンス・ニルソン・クリング 1638年 1640年
ピーテル・ホランデル・リッデル 1640年 1643年
ヨハン・ビョルンソン・プリンツ 1643年 1653年
ヨハン・パペゴヤ 1653年 1654年
ヨハン・クラッソン・リシング 1654年 1655年

ニューアルビオン植民地(1634年–1649年)

イングランド所有植民地(1664年–1702年)

ロード・プロプライアター(Lords Proprietor)配下の総督(1664年–1673年)

氏名 就任 退任
リチャード・ニコルズ 1664年 1665年
フィリップ・カータレット 1665年 1672年
ジョン・ベリー 1672年 1673年

ニューネーデルラントの再興(1673年–1674年)

氏名 就任 退任
アンソニー・コルヴ 1673年 1674年

東西ニュージャージー (1674年–1702年)

東ニュージャージー総督(1674年–1702年)

氏名 就任 退任
フィリップ・カータレット 1674年 1682年
エドマンド・アンドロス 1674年 1681年
ロバート・バークレイ 1682年 1688年
エドマンド・アンドロス 1688年 1689年
空席 1690年 1692年
アンドルー・ハミルトン 1692年 1697年
ジェレマイア・バス 1698年 1699年
アンドルー・ハミルトン 1699年 1702年

西ニュージャージー総督(1680年–1702年)

氏名 就任 退任
エドワード・ビリンゲ 1680年 1687年
ダニエル・コックス 1687年 1688年
エドマンド・アンドロス 1688年 1689年
ダニエル・コックス 1689年 1692年
アンドルー・ハミルトン 1692年 1697年
ジェレマイア・バス 1698年 1699年
アンドルー・バウン 1699年 1699年
アンドルー・ハミルトン 1699年 1702年

イギリス直轄植民地(1702年–1776年)

ニューヨークおよびニュージャージー総督(1702年–1738年)

氏名 就任 退任
エドワード・ハイド 1701年 1708年
ジョン・ラヴレース 1708年 1709年
リチャード・インゴールデズビー 1709年 1710年
ロバート・ハンター 1710年 1720年
ウィリアム・バーネット 1720年 1728年
ジョン・モンゴメリー 1728年 1731年
ルイス・モリス 1731年 1732年
ウィリアム・コスビー 1732年 1736年
ジョン・アンダーソン 1736年 1736年
ジョン・ハミルトン 1736年 1738年
ジョン・ウェスト 1737年 1737年

ニュージャージー総督(1738年–1776年)

氏名 就任 退任
ルイス・モリス 1738年 1746年
ジョン・ハミルトン 1746年 1747年
ジョン・リーディング 1747年 1747年
ジョナサン・ベルチャー 1747年 1757年
ジョン・レディング 1757年 1758年
フランシス・バーナード 1758年 1760年
トマス・ブーン 1760年 1761年
ジョサイア・ハーディー 1761年 1763年
ウィリアム・フランクリン 1763年 1776年

脚注

参考文献

  • Black, Frederick R. The Last Lords Proprietors: The West Jersey Society, 1692–1703. Ph.D. Dissertation, Rutgers University, 1964, Rutgers University Library, Special Collections (New Brunswick, New Jersey).
  • Brodhead, John Romeyn. The Government of Sir Edmund Andros over New England, in 1688 and 1689. (Morrisania, N.Y: Bradstreet Press, 1867).
  • Craven, Wesley Frank. New Jersey and the English Colonization of North America. (Princeton: Van Nostrand, 1964).
  • Cunningham, John. East of Jersey: A History of the General Board of Proprietors for the Eastern Division of New Jersey. (Newark, New Jersey: New Jersey Historical Society, 1995).
  • McConville, Brendan. These Daring Disturbers of the Public Peace: The Struggle for Property and Power in Early New Jersey. (Ithaca: Cornell University Press, 1999).
  • McCreary, John Roger. “Ambition, Interest and Faction: Politics in New Jersey, 1702–38.” Ph.D. dissertation, University of Nebraska, 1971.
  • Myers, Albert Cook. Narratives of Early Pennsylvania West New Jersey and Delaware: 1630–1707. (New York: Charles Scribner’s Sons, 1912).
  • Pomfret, John Edwin. The New Jersey Proprietors and Their Lands. New Jersey Historical Series, Volume 9. (Princeton: D. Van Nostrand Co., Inc., 1964).
  • Pomfret, John Edwin. Colonial New Jersey, A History. (New York: Charles Scribner’s Sons, 1973).
  • Schmidt, George P. Princeton and Rutgers: The Two Colonial Colleges of New Jersey. (Princeton, D. Van Nostrand, 1964).
  • Tanner, Edwin Platt. The Province of New Jersey, 1664–1738. (New York: s.n. 1908).

関連項目

外部リンク


ニュージャージー植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:54 UTC 版)

フランシス・バーナード (初代準男爵)」の記事における「ニュージャージー植民地総督」の解説

バーナードの妻はバーリントン卿の従妹であり、バーリントン1755年枢密院議員になった。このバーリントンおよびパウナル家へのコネ通じてバーナード1758年1月27日にニュージャージー植民地総督の指名得た可能性がある。その地位ジョナサン・ベルチャー死によって空いていた。バーナード夫妻子供何人かを親戚の所に残し、4人の子供だけを連れて北アメリカ向けて旅立ち6月14日ニュージャージーパースアンボイ到着したバーナード植民地到着したときはフレンチ・インディアン戦争渦中にあったニュージャージー議会良好な動かせる関係を築き軍隊立ち上げ継続する戦争遂行するための予算確保するよう植民地説得できた。ニュージャージーペンシルベニア植民地の間で、またインディアン部族レナペ族ニュージャージー主要な関心だった)との間で、植民地インディアン領土境界固定させる協定であるイーストン条約調印した。これによってフロンティア対す襲撃減らし植民地の軍事力をヌーベルフランスとの戦争宛てることを可能にしたので、重要なことだった。バーナード交渉したこの条約とその他協定ニュージャージーに対して残っていたインディアン領有権全て消失させた。レナペ族との交渉は、初めての正式なインディアン居留地設立にも繋がった。それが現在のインディアンミルズに近いブラザートンである。この居留地人口少なくなり、1801年には残っていた住人アップステート・ニューヨークのストックブリッジ・インディアンに合流して居留地消滅した

※この「ニュージャージー植民地総督」の解説は、「フランシス・バーナード (初代準男爵)」の解説の一部です。
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