レナペ
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レナペ族(Lenape、レニ・レナペ族、Lenni-Lenape )あるいはデラウェア族(Delaware)は、アメリカ・インディアン(ネイティブアメリカン)の部族である。「レナペ」は彼らの言葉で「真の人間」という意味。
文化・歴史
アルゴンキン語族に属し、現在でいうアメリカ東部ニューイングランドのニューヨーク州、ペンシルベニア州、ニュージャージー州、デラウェア州、デラウェア湾・デラウェア川一帯で、トウモロコシの栽培農場を中心に、多数の支族集団が小規模なウィグワムの集落を作って狩猟採集を行いながら点在していた。

部族名のレナペの別名「デラウェア」は、1610年ジェームズタウン入植のバージニア植民地総督に任じられた、第3代デラウェア男爵トマス・ウェストを記念して、サミュエル・アーガル大尉が入植地の湾をデラウェアと名付けたことに由来する。
以後、イギリス白人の入植による土地略奪と虐殺、また彼らが持ち込んだ天然痘や風邪などの伝染病で部族の人数は減り、衰退した。白人のように牛や馬、羊といった家畜を飼う文化が無かったため、伝染病に免疫を持たず、ひとたまりもなかったのである。
詐欺による領土剥奪
1737年、英国の入植仲買人ウィリアム・ペンの息子たちは、ラッパウィンソエ酋長(Lappawinsoe)に対し、「我々が一日半で歩いて回れるだけの面積の土地を、白人入植者に売ってくれないか」と持ちかけた(Walking Purchase)。
調停者であるラッパウィンソエ酋長がこれを承諾すると、ペンは14人の屈強な男たちに、1日半(36時間)かけて281キロメートルを歩かせた。こうして、デラウェア川一帯4,860平方キロメートルの土地は、白人のものとなってしまった。
「生まれ故郷から出ていけ」と言われたラッパウィンソエと部族民は激しく抗議したが、抵抗むなしく武力によって抑え込まれ、彼らは西方へ強制的に追い出されることになった。その後数年間の戦いで、彼らはさらに虐殺された。
現在この契約は酋長の署名もなく、いかさまとされている。ブリタニカ百科事典は、「土地の詐欺取引」の項目でこの「Walking Purchase」に言及している。
現在
生き残った者はイギリスおよびイギリスから独立したアメリカ政府のさらなる領地拡大により、西部に移動させられた。部族の多くの者はチェロキー族の連合に入り、独立した部族をなんとか保っていた。インディアン強制移住法が発布されると、部族の大半は1860年代にインディアン準州(現オクラホマ州)に強制移住させられた。アメリカ連邦政府が公式認定し、保留地(Reservation)を領有するのはこのオクラホマ部族のみとなっている。
他の小規模のレナペ族は強制移住を拒否し、なおも北東部の各州に残って結束を保っており、ニュージャージー州ではレナペの三部族が州政府によって公認されている。それ以外の他州のレナペ族は、「絶滅部族」扱いとなり、「インディアン部族」としては公認されていない。
外部リンク
レナペ族
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「ニューヨーク市の歴史」の記事における「レナペ族」の解説
この地に先住するインディアン部族のレナペ族(デラウェア族)は、長らくこの地を領土としていた。独自の文化を持ち、アルゴンキン語族系の言葉を話した。レナペはこの地域をScheyischbi、または「海との境界の場所」、「レナペホーキング(英語版)」(論争中であり現在答えは出ていないが、おそらく「レナペの住む場所」という意味だという)と呼んだ。 彼らは地域で取れる限定された獲物(魚、鳥、貝、鹿など)約150種の狩猟をしていて、比較的獲物の数は少なかったと考察されるが、洗練された狩猟と資源の利用技術を有していた。焼畑農業により肥沃な土壌を生み出し、トウモロコシ、カボチャ、豆などを栽培した。また二つの川からはカキやストライプドバスなど多量の魚介類を手に入れる術も身に着けていた。レナペ族は小さな団体で季節ごとにウィグワムを使用した移動型生活をし、一定した集落に定住する民族ではなかった。(右図は当時のレナペ族の勢力範囲) また彼らは文字を持たなかったが、現在のニューヨークの地名は彼らの言語に由来するものが多い。"マンハッタン"はレナペの言葉で「丘の多い島」、または「我々がみな、酔っぱらいにされた島」という意味である。優れた道路の開拓も行っておりブロードウェイなどその多くは現在でも幹線道路として残っている。 レナペ族は族内のみならず他の部族と物々交換による貿易もしていて、物々交換の主な対象となったのは貝殻などを手作りで宝飾品にした貝殻玉(ワムパム)だった。貝殻玉を作るのに必要な材料はピクォート族が独占していた。これらはロングアイランド湾(図4)で採れた。現在のニューヨーク市地域で生産された貝殻玉が五大湖周辺でも発見されているため、同族同士のみならず他のインディアン、イロコイ族(現在のニューヨーク州東部に居住)などとの貿易の豊かさを示している。このことからヨーロッパ人の入植以前からニューヨーク地域は商業の中心であった可能性が濃い。ヨーロッパ人が入植し始めた時代のインディアン人口は同地域だけで約15,000人に上ったと推測されている。
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