新大陸発見後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/04 04:28 UTC 版)
「モリス郡 (ニュージャージー州)」の記事における「新大陸発見後」の解説
モリス郡となった地域にヨーロッパ人が訪れる以前、レナペ族インディアンが住んでいた。川沿いに住み、動物を狩り、魚を獲り、植物や木の実を集めていた。 1611年から1614年、オランダがニューネーデルラント植民地を設立し、北緯40度線から45度線の間の領有を主張したので、その中にはニュージャージーの北部も含まれた。 インディアンはオランダ人と毛皮や食料と引き換えに様々な商品を手に入れた。オランダ人からは金属のポット、ナイフ、斧、毛布が渡った。インディアンとの交易は1643年まで続いたが、様々な考え方の不一致や誤解のために一連の戦争が起こった。 オランダとインディアンの敵対関係は1643年から1660年まで続いた。このことでオランダによるニュージャージーの開拓は遅れた。 1664年8月27日、3隻のイギリス艦船がニューアムステルダムの砦に近づいたときに、その砦はイギリスに降伏した。イギリスがニューネーデルラント地域を支配し、モリス郡となった地域はニューヨーク植民地の支配下に入った。インディアンとの関係は暫くの間改善された。 その10年後に第三次英蘭戦争が起こった。オランダはニューアムステルダムを再度支配したが、その1年後にはイギリスに返還した。 ヨーロッパ人による開拓は18世紀初期に始まった。モリス郡の地域は当初ハンタードン郡と呼ばれていた。当時もインディアンはこの地域にいた。インディアンの土地は、毛布、シャツ、ラム酒、銃、ナイフ、ポット、火薬など様々な品物と引き換えに買収された。インディアンにとって、土地を売る行為はヨーロッパ人の考え方と異なっていた。まず大西洋岸から開拓が始まり、内陸に移っていった。 地域最初の開拓地は1695年にオランダ人がポンプトン平原に開いたものだった。1710年から1730年、様々鉄鉱石鉱山や鋳造所が設立された。その最初のものは1710年のウィッパニーであり、1713年のサッカサナが続いた。 1750年までに、インディアンは全てニュージャージーを離れた。これは土地をインディアンから購入したこと、ヨーロッパ由来の疫病でインディアンの人口が減ったこと、小氷河期のために飢餓が生じたことが要因だった。この小氷河期に、インディアンはトウモロコシなどの栽培に失敗し、川が凍って釣りができなかった。吹雪のために動物は冬眠状態になり、見つけられなかった。晩霜のためにオーク、ヒッコリー、ブナ、クルミ、クリ、バターナットの実も食料の足しにはならなかった。これらすべてが同時におこり、インディアンはカナダ東部、あるいはオハイオ・バレーに移っていった。1737年9月にあったウォーキング・パーチェイス(1日で歩いただけの土地を購入)によって、ペンシルベニア東部に移住することも妨げられた。当時、農業や入植するための土地があったので、ヨーロッパ人による開拓が急速に進展した。 モリス郡は1739年3月15日にハンタードン郡から分離して設立された。郡名はニュージャージー植民地総督を務めたルイス・モリス大佐に因んで名づけられた。1753年6月8日に郡域からサセックス郡が設立され、独立後の1824年11月20日にはウォーレン郡が創設された。 アメリカ独立戦争の時に、1777年冬のトレントンとプリンストンの戦いの後、大陸軍が郡内で宿営した。1779年から1780年の冬も小氷河期で極度に寒い冬だったが、ジョッキーホローで冬営を張った。
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