大西洋岸
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ウォーレンのチェサピーク湾方面作戦(1813年3月-9月): イギリス海軍ジョン・ウォーレン提督が指揮した海軍の主要作戦。チェサピーク湾の封鎖、アメリカの勢力に関する情報収集、USSコンスティチューションの破壊、チェサピーク湾内の交易の妨害、イギリス軍に有益なアメリカ艦船と物資の捕獲を目指し、最終的に海上封鎖をデラウェア湾からロングアイランドに広げることを目標としていた。ウォーレンは上級指揮官に留まっていたが、作戦の多くはアレクサンダー・コクラン海軍中将の指揮する艦船によって行われた。コクランは、海岸に上陸して抵抗した村や町で民間人の資産を破壊するような攻撃的な行動を採ったので、アメリカ人に大いに憎まれた。 バージニア州ラッパハノック川の戦い(4月3日): イギリス海軍によるラッパハノック川を遡った襲撃。ラッパハノック川はハンプトンからチェサピーク湾を北に40マイル (64 km) 上流で湾に注いでいる。アメリカの船舶14隻を捕獲または破壊した メリーランド州フレンチタウンの襲撃(4月29日): ウォーレンのチェサピーク湾方面作戦の間にイギリス軍上陸部隊が行った襲撃。ボルチモアとフィラデルフィアの間の道路沿い、エルク川の約15マイル (24 km) 上流にあった小さな集落を襲った メリーランド州ヘイバー・ド・グレイスとプリンシピオ製鉄所への襲撃(5月3日): ジョージ・コックバーン海軍少将の指揮で、ボートの船隊によって行われた襲撃。メリーランド州民兵隊がヘイバー・ド・グレイスでの上陸に抵抗すると、イギリス海兵隊が家屋を焼いて略奪し、倉庫を燃やし、家畜を奪ったり殺したりした。プリンシピオ製鉄所では、製造していた多くの銃や作品を破壊した メリーランド州ジョージタウンとフレデリックタウンへの襲撃(5月6日): HMSモホークから上陸した部隊による、チェサピーク湾の北東隅に流れ込むササフラス川沿い2村への襲撃。人の住んでいない家屋を破壊し、スクーナー4隻、砂糖倉庫、木材および皮革を破壊した バージニア州クラニー島への攻撃(6月22日): エリザベス川河口の島を守っていたアメリカ軍小部隊に、上陸したイギリス軍部隊が勝てなかった。このことで港湾都市ノーフォーク占領を目指していたイギリス軍のもくろみを狂わせ、アメリカ軍にとって重要な勝利となった バージニア州ハンプトンの占領(6月25日-26日): イギリス軍がクラニー島占領に失敗した後、ハンプトンを占領した。町を1日占領している間に、イギリス軍は銃、弾薬、荷車、馬、家畜や食料を取り上げ、さらに略奪、破壊、強姦、殺人を犯したと報告されている。イギリス軍の損失は戦死5名、負傷33名、不明10名だった ノースカロライナ州オクラコーク入江への襲撃(7月12日-16日): イギリス海軍が、ノースカロライナ州海岸沖のアウターバンクスを抜けるための水路、オクラコーク入江を通ってパムリコ湾に入り、作戦を実行した。この水路はイギリス軍がチェサピーク湾を封鎖している時の、アメリカ商船が使う経路だった。この襲撃で多くのアメリカ船舶を捕獲し、オクラコークとポーツマスの村から物資と家畜を押収した
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大西洋岸
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コクランのチェサピーク湾方面作戦(4月-9月): イギリス海軍ジョージ・コックバーン海軍少将の作戦指揮の下、チェサピーク湾周辺でイギリス海軍が行った大々的な方面作戦。その中にはワシントンとボルチモアに対する攻撃が含まれている。コックバーンの上官がアレクサンダー・コクラン海軍中将であり、方面作戦全体の指揮を執った。コクランは断固とした反アメリカ感情の持ち主であり、海岸部にあるアメリカ人の町に対してコックバーンに大変攻撃的な手段を採らせただけでなく、奴隷達にイギリス軍に加わり軍隊に仕えるか、アメリカに対するイギリスの戦争遂行に参加するよう促す宣言も発した バージニア州ポンゴティーグ・クリークでの小競り合い(5月30日): メリーランド州から南にバージニア州まで伸び、チェサピーク湾と大西洋を分けている半島で、ポンゴティーグ・クリークの崖上にありバージニア州民兵が駐屯するアメリカ軍砲台に対し、イギリス軍が水陸協働で攻撃し成功した メリーランド州シーダーポイントでの小競り合い(6月1日): パタクセント川河口近くで、アメリカ戦隊と、ジョージ・コックバーン海軍少将の戦隊が会戦し引き分けた。両戦隊とも操船して位置の利点を取り、長射程から撃ち合った。艦船に被害が及ぶ前に、アメリカ戦隊が引き揚げた メリーランド州セントレナーズ・クリークでの小競り合い(6月8日-26日): ジョージ・コックバーン海軍少将の戦隊が始めた一連の戦闘。アメリカ戦隊はパタクセント川に注ぐセントレナーズ・クリークの河口から約7マイル (11 km) に後退した。アメリカ戦隊はクリークに閉じこめられた状態となり、イギリス軍はパタクセント川沿いで襲撃を行った。6月26日にアメリカ戦隊は封鎖を突破した メイン方面作戦(1814年7月-1815年4月): メイン州海岸に対するイギリス海軍の作戦。大した抵抗も受けずにイーストポート、マチャイアス、カスティーン、バンゴーの各町を占領していった ポトマック川沿岸に対するゴードンの襲撃(8月17日-9月6日): ジェイムズ・ゴードン海軍大佐が指揮するイギリス海軍戦隊による、ポトマック川を遡る遠征。ワシントン焼き討ちに繋がったパタクセント川を遡る遠征から注意を逸らす意図があった。ゴードンの襲撃はメリーランド州ワシントン砦のアメリカ軍を排除し、繁栄している港のアレクサンドリアを難なく占領し、多くの戦利品や物資を得ることができた メリーランド州ブラーデンスバーグの戦い(8月24日): 5,000名に満たないイギリス軍が、7,000名近いアメリカ軍を潰走させるという、この戦争ではアメリカ軍にとって最悪の結果となり、首都ワシントンが無防備の状態になった ワシントンD.C.の焼き討ち(8月24日、25日): チェサピーク湾にいたジョージ・コックバーン海軍少将の艦隊から4,000ないし5,000名の部隊が首都を占領した。この焼き討ちは1813年にアメリカ軍がヨークを焼き討ちし略奪したことの報復と一般に解釈されている。イギリス軍は国会議事堂、議会図書館、ホワイトハウス、財務省と陸軍省を収容していた建物を焼いたが、民間の建物は自ら火を付けたものが焼けただけだった メリーランド州ボルチモアへの攻撃(9月12日-15日): 重要な港湾都市ボルチモアに対するイギリス軍の水陸協働の攻撃。マクヘンリー砦が艦砲射撃を受けたが、アメリカ軍は砦を守り、陸への侵入も撃退した メリーランド州ノースポイントの戦い(9月12日): ボルチモア攻撃初期段階でのイギリス軍の戦術的勝利。約4,500名のイギリス正規軍が、ボルチモアから南東に10マイル (16 km)、ノースポイント半島の狭い部分で、3,000名のアメリカ民兵隊を破った。アメリカ軍は戦場では敗れたが、この戦闘で時間を稼ぎ、ボルチモア市前面の防御は固められた メリーランド州マクヘンリー砦に対する艦砲射撃(9月13日、14日): ボルチモア攻撃時にマクヘンリー砦を制圧しようとして失敗した戦闘。マクヘンリー砦はボルチモア港に入る艦船を塞ぐためのものだった。マクヘンリー砦が降伏しないことが明らかになると、イギリス軍の陸上攻撃が中止され、ノースポイントに上陸していた部隊も撤退した
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「大西洋岸」の例文・使い方・用例・文例
- 米国大西洋岸諸州
- 大西洋岸.
- 中部大西洋岸諸州
- ヨーロッパと北アメリカの大西洋岸の暗い紫色の海草食品
- アメリカとヨーロッパの大西洋岸水域の小型の有害なサメ
- 蹄鉄とかたい先鋭なテールのように形成される半球形の甲羅を持っている北アメリカの大西洋岸の大きい海洋の節足動物
- 北アメリカの大西洋岸の一般の食用のカキ
- 小型のイタヤガイで、北米大西洋岸の浅瀬や泥地にすむ
- 大型のイタヤガイで、北米大西洋岸の深いところにすむ
- 米国大西洋岸の砂浜に生息する明るい斑紋のあるカニ
- アメリカの大西洋岸のロブスター
- ヨーロッパの大西洋岸のロブスター
- 北アメリカの大西洋岸のニシンダマシ
- 米国の大西洋岸の青黒い縞の入ったスズキ
- 地中海、およびヨーロッパとアメリカの大西洋岸の食用魚
- 食用・釣用魚にされるニベ類の1グループで、北米大西洋岸の暖海に固有の魚類
- 西大西洋岸に沿って見られる
- 米国大西洋岸でとれる
- 米国南部の大西洋岸でとれる脂肪の少ない塩水魚の肉
- 北米大西洋岸でとれる数々の細長い食用魚の肉
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