イギリス軍上陸とは? わかりやすく解説

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イギリス軍上陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 17:43 UTC 版)

半島戦争」の記事における「イギリス軍上陸」の解説

1808年8月イギリス軍少将サー・アーサー・ウェルズリー指揮のもと、ポルトガル上陸したポルトガルのBernardim Freire de Andrade将軍率い前衛部隊ルイ=アンリ・ロワソン(英語版将軍率い仏軍一隊阻止している間に、ウェルズリーの本隊はドラボルドゥ将軍指揮下の仏軍8月17日ロリーサの戦いで破った8月21日に英葡(葡=葡萄牙ポルトガル)軍はジュノー将軍指揮フランス軍激戦交えた。ウェルズリーの注意深い管理、強い指導力そして妥当な戦略により、英葡軍は、戦線維持するフランス軍とその同盟軍はねのけた。しかし、勝利したにもかかわらず、ウェルズリーは軍人として若すぎて、ポルトガル新たに補強され遠征隊を指揮できないみなされ、ウェルズリーの地位は、ハリー・バラードに替えられてしまった。バラードが死ぬと次はヒュー・ダルリンプルが任命された。一連の勝利で、物議を醸したシントラ協定に基づき1808年8月ポルトガルからフランス軍撤退することになったイギリス軍司令官は、3精鋭率いるサー・ジョン・ムーアを残してシントラ協定調査のために本国への帰還命じられた。 英葡軍とスペイン軍勝利したことで、ナポレオン自身イベリア半島20の兵を率いてゆくことになったイギリス軍ブルゴス近郊攻撃ブルゴス戦い)したが、まもなく長い退却強いられ、さらにサアグン戦い、ベナペンテの戦い、カカベロスの戦い挟みながら、フランス軍追撃を受け、1809年1月ア・コルーニャから撤兵して終わったムーアはコルーニャの戦い英語版)として知られる戦闘中市街防衛指揮中に戦死した。こうしてスペイン大半ナポレオンフランス占領下おかれることになった。僅か2ヶ月余りスペインにいて、ナポレオン元帥指揮権戻し自身フランス帰国した3月スールト元帥は北の回廊地帯通って2度目ポルトガル侵略取り掛かった始めミーニョ川ポルトガル民兵撃退されたが、シャヴェスブラガ攻略し、さらに1809年3月29日ポルト攻略した。しかし、アマランテなどの都市のシルヴェイラ(英語版)の抵抗は、スールト軍をオポルトにて孤立させ、スールトは北ポルトガルの王になるか、この国からの退却かの賭け打って出たその間ナポレオン勝利スペイン軍壊滅させたが、スペイン人をしてスペインにおけるフランス敗北大い貢献することになるゲリラ戦法開始させることとなったポルトガルではミゲル・ペレイラ・フォルハス「戦争大臣」が英国から送られ資金兵力国軍再建行っていた。1806年から示されてきた軍制改革実行された。最初2万人の常備軍と3民兵召集された。その後、この数は常備軍5万民兵5万膨れ上がり、「オルデンナンサス」と義勇軍加わった1809年4月にウェルズリーは英葡軍を指揮すべく、ポルトガル戻った。そしてイギリス軍を、フォルハスと各地域知事によって組織されベレスフォード将軍によりイギリス風の戦闘合わせて改編されたポルトガル連隊によって、補強した。これらの新軍5月10日から11日のグリホの戦い5月12日オポルト戦いでスールト軍を破った北部全都市がシルヴェイラによって攻略された。 ウェルズリーは、新占領地が気になるポルトガル軍から離れ、グレゴリオ・デ・ラ・クエスタ軍に合流すべく、スペイン進軍した連合軍7月27日から翌28日タラベラ・デ・ラ・レイナ戦いでホセ1世率い王国軍撃破した。そこは、連合軍が、不安定さ露呈しすぐさま西方へと撤退することとなった、高い代償払って勝利をおさめた場所であった。タラベラの戦い勝利でウェルズリーはウェリントン子爵叙された。この年、後にスペイン軍はオカナの戦いとアルバ・デ・トルメスの戦いで、ひどい惨敗喫したスペイン軍との共闘うまくいかなかったことと新しフランス軍怖れるようになり、ウェルズリーはポルトガル防衛強化する決断下したリスボン防衛するために、彼はネベス・コスタ少佐計画採用し主要道塹壕土塁沿って強力な堡塁線(162)を構築し、トレス・ベドラス線を形成した1811年7月フランス軍アンドレ・マセナ元帥率い60,000の軍を以って侵攻した戦端コア戦いで開かれたその後マセナは「ポルトガル最悪の道」を辿った9月27日のブサコの戦いで有利な位置いながら不注意な戦術敗北喫したが、英葡軍をトレス・ベドラス線まで撤退させた。10月14日のソブラルの攻撃後で戦況膠着状態に陥るほどに城塞印象的なのだった。チャールズ・オマーンの記述によれば10月14日濃霧の朝、ソブラルで『ナポレオンの潮』が最高潮達し、そして引き潮始まった」。ポルトガル人前線焦土作戦対象となったフランス軍補給路の欠如疾病のためについに撤退余儀なくされた。 1811年初頭同盟軍新たなイギリス軍の到着再度増強され、攻勢転じたフランス軍カディス包囲解いた失策一因となって3月5日のバロッサの戦いで敗北喫し、マセナは5月3日から同月5日までのフェンテ・デ・オノーロの戦い膠着状態に陥ると、ポルトガルから撤退した。マセナは25,000兵員ポルトガルとの戦闘失いオーギュスト・マルモン交代することになったスールトバダホス威嚇するために南部から移動したが、ウィリアム・ベレスフォード率いる英葡軍とスペイン軍により5月16日アルブエラの戦い追い返された。この血みどろ戦闘のあと、フランス退却余儀なくされた。 戦争一時休戦し、数では優勢でもフランス軍優位に立つことはできず、スペインゲリラ活動による圧力増していた。フランス軍は350.000を超す兵力スペイン軍(L'Armée de l'Espagne)にいたが、その大半20を超す兵力が、実戦部隊よりもフランス軍補給防衛当たって失われたスペインでは戦時中各地域作られフンタ構成される最高中央評議会(Junta Suprema Central)が、1810年からカディスコルテス召集し自由主義的な1812年カディス憲法」の草案作り取り掛かった1812年新年早々にウェルズリーはスペインへの同盟軍再編行い1月19日にシウダー・ロドリーゴの城塞化された町を包囲攻略しバダホス4月6日に高い代償払った襲撃のあと同様に攻略した両方の町は軍に略奪された。7月17日同盟軍マルモン進軍してきたのでサラマンカ進駐した。両軍はついに722日遭遇したサラマンカの戦いではフランス壊滅的な敗北喫したベレスフォード元帥重傷負ったフランス軍再集結したので、英葡軍はマドリード8月6日入城しポルトガル撤退する前にブルゴス進軍したフランス起死回生望みは、1812年ナポレオン悲惨なロシア遠征によって打ち砕かれた。対スペイン軍から3精鋭ロシア遠征に連れて行き増援交代尽きフランス軍優位は、同盟軍1813年攻勢転じたので、次第維持し難くなった。 戦術的な動きとして、ウェルズリーは補給基地リスボンからサンタンデル移した5月末に英葡軍は北へ転じてブルゴス奪取しその際、英葡軍はフランス陸軍側面から包囲しホセ1世ジョゼフ・ボナパルト)をサドラ川の谷へと追いやった。6月21日ビトリアの戦いホセ1世65,000の軍は、53,000イギリス軍27,000ポルトガル軍19,000スペイン軍により退路狭められた。ウェルズリーはフランス軍サン・セバスティアンから追撃し追い払ったサン・セバスティアンの町は打ち捨てられ、火を放たれた。 同盟軍退却するフランス軍追撃しピレネー山脈7月初めに到達したスールトフランス軍命令与え反撃始め同盟軍2人将軍翻弄しマヤ戦いとロンセスバリェスの戦いで快勝収めた。だが、英葡軍に厳しく撃退され勢い失い、ついに728日から30日にかけてのソラウレンの戦い同盟軍勝利の後、敵の軍門下ったピレネー戦い呼ばれるその週の戦いは、もしかしたらウェリントンにとって最良のものかもしれない。敵との数が拮抗し、ウェリントン補給路からきわめて遠いところで戦っていたし、フランス軍はその領域防御していたが、それでも戦争では稀な機動作戦衝撃砲火組み合わせ勝利した。それは戦争山場であり、このときウェリントンポルトガル陸軍を「同盟軍闘鶏」と評した10月7日ウェリントンドイツでの戦闘再開の報を受け取り同盟軍は、ビダソア川渡りフランス国境越えた半島戦争ベラ峠、ニーヴルの戦いバイヨンヌ近くニーブ戦い1813年12月10日 - 14日)、オルセの戦い1814年2月27日)、トゥールーズ戦い4月10日)で同盟軍勝利行われた最後の戦いは、ナポレオン流刑後のものである

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イギリス軍上陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 08:49 UTC 版)

アブステンション作戦」の記事における「イギリス軍上陸」の解説

1941年2月24日上陸部隊中心英軍の誇る特殊部隊であるブリティッシュ・コマンドス隊員200名で、駆逐艦「ヘレワード、「デコイ」に乗艦して、軽巡洋艦グロスター」に護衛され作戦海域輸送された。同時にイギリス海兵隊25名がクレタ島スダ湾から砲艦レディバード」に乗って任地へと向かった作戦計画ではコマンドス海兵隊にはシャーウッド・フォレスターズ中隊 (英語版) が到着する24時間後までに橋頭堡確保する事が命じられていた。この増援部隊キプロス島から軽巡洋艦ボナヴェンチャー」、「パース」に護衛され武装ヨット「ロサウラ」によって運ばれる計画になっていた。 2月25日潜水艦「パーシアン」によって島周辺偵察が行われた後、コマンドス海兵隊夜明け前作戦開始したカステロリゾ島には周辺の島々無線連絡を行う為に駐留する小規模雑多な装備し持たない守備隊と、財務省警察(Guardia di Finanza、英語版)の職員僅かに居るのみであった無線施設奇襲仕掛けたコマンドス海兵隊守備隊12名を捕虜して拠点押さえたが、既にイタリア守備隊ドデカネス諸島ロドス島友軍部隊イギリス軍襲来連絡していた。

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