ロリアンの反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
イギリス軍上陸の報せは9月30日の午後3時にロリアンにもたらされ、同市に住むブルジョワの一部は脱出してエンヌボンやヴァンヌへ向かった。警告は各地に発され、内陸のノワイヤル=ポンティヴィ(英語版)に届くほどであった。ポール=ルイ城(英語版)の指揮官デシャン(Deschamps)は近隣の町に援軍を要請した。援軍は10月1日から2日にかけて派遣され、ヴァンヌからは300人、ジョスランからは2つの分遣隊、ロアンからはいくらかの部隊、モルレーからは300人、ランバルからはマスケット銃の射手数十人、レンヌからは1,000人より少し下の人数が派遣された。 撤退していたフランス軍は同日の夜にロリアンに到着した。平民と沿岸警備隊の民兵約2千人は後衛としてゲリラ活動を行い、イギリス軍に町から離れて郊外を進むよう仕向けた。1日目にはイギリスの偵察軍が平民軍と戦ってケヴァン(英語版)に撤退させた後ギデル(英語版)を占領した。 10月1日夜、ロピタル侯爵がロリアンの守備の指揮を執り、すぐに作戦会議を開いた。彼は町の守備を民兵隊に任せ、自分の軍勢は郊外でイギリス軍に対するゲリラ活動を行おうとしたが、ロリアンの住民が同意しなかったため彼は指揮権を返上した。
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